4-4.

 ガヤガヤとした店内で、ざっくばらんに注文した料理が次々とテーブルの上に並んでいく。


「それじゃあ久し振りの再会に――乾杯ッ!」


 ヴィクターのご機嫌な音頭と共に、彼とジョン、ジャネット、ジュネの四人は手にしたグラスを打ち鳴らした。メアリーも控えめにジュースの入ったグラスを掲げていた。

 酒と煙草と料理の匂い、そして笑い声が響き渡るその店は、大衆向けのどこにでもあるパブリック・ハウスだ。学生時代からジョン達五人にとって、事ある毎にその店に訪れては酒と料理と会話を楽しむ憩いの場所だった。


「ここも久し振りね。あんまし――って言うか、全然変わらないわね」

 早速グラスを空にし、次の酒を注文したジャネットが、店内を見渡しながらそう言った。

「変わらない方がいいものだってあるだろ」

 煙草に火を点けながら、ジョンがそう嘯く。

「つっまんないこと言うよねえ、ホント、アンタは。もっと酒を飲みなさいよ、ホラホラ!」

 そういやこいつは酒を飲むと、いつも違うテンションで絡んでくるんだったな……とジョンは思い出し、「面倒臭い奴だな」と紫煙をジャネットに向けて細く吹き出した。

 堪らず咳き込んだジャネットが、

「臭いのはどっちよ! もーサイテー!」

「……やっぱり、楽しそうねえ」

 酒が苦手なジュネはジュースをチビチビと飲みながら、微笑ましそうにそう呟いた。

「ほうだね、まっはくはね」

 口いっぱいにローストビーフを詰め込んだまま、ジュネの言葉にヴィクターが返す。


「…………」ジュネは呆れたようにヴィクターを斜視した後、「メアリー、大丈夫? 今更だけど、迷惑じゃなかった?」

 ジュネの言葉につられ、ミートパイを人数分に切り分けていたジョンも、メアリーに視線を向けた。

 メアリーは驚いたように首を振って、

「ううん、迷惑じゃないよ。ただ明るくて、賑やかで、すごい……すごいなあって……」

 ジョンは「確かにな」と周囲を見渡す。


 メアリーの世界はあのホワイトチャペルだ。悪臭と貧しさと見窄らしさ。ただ一瞬先にある生を掴み取る為に悪意を手にする者だっているだろう。そんな過酷な環境に、彼女とその仲間達はいる。

 ジョンはメアリーが普段どんな生活をしているのか聞いていないし、聞くつもりもなかった。知りたくないと言うのが本音だった。知ったとしても、そこから彼女達を救うことが出来ないからだ。……もしかしたら、メアリーは触れている物全てが未知の物だったのかも知れない。そんな異質な環境に置かれれば、不安で一杯だろう。そこへ更に自分、ジャネットやヴィクターという知らない人間が入り込む余地が少しでもあったのか……?

 ジョンは頭を振った。胸の中に湧いた少女への罪悪感を掻き消す為に。

 メアリーはそこまで望んでいないだろう。彼女の口からそんな言葉は一切出ていない。聡明な彼女のことだ、それくらいは気付いているのかも知れない。


 だからせめて――、せめて家族を助けて欲しい。ホワイトチャペルの子供達すら知っているシャーロック・ホームズの名。それに縋り、一人でジョンの下へやって来た。

 シャーロック・ホームズの話は、子供にとって分かり易いヒーロー譚のような物だろう。

 シャーロックがいなくなったことに対し、世間は大いにどよめいた。それは英国に限った話ではなく、英国全土、海を渡った仏国、聖都とそこを囲う伊国――。欧州全域に彼の名は広まっており、曰く『最強』、『英雄』、『無敵』など二つ名の数は知れなかった。

 シャーロックがいれば、悪魔の心配なんてしなくていい――。そんな無根拠ながら絶大な安心感を与えていた彼が、なんと悪魔によって倒された。その話は箝口令を敷くよりも早く人々に広まった。そして、その原因が息子のジョンであるのも同時に。


 だからこそ、ジョンは何か結果を出さなければならなかった。シャーロックの喪失を僅かでも埋める為の結果を。それが息子である自分の責務であることを、彼は重々理解していた。ジャンヌがロンドンを騒がす切り裂きジャック事件の解決をジョンに任せたがったのは、それも理由の一つだった。

 しかしそれに従っては、自分が世間に媚びているようで、その姿勢がジョンは気に入らなかった。だからせめてもの抵抗――ではないが、書類の作成を人任せにした。


 間違えているし、くだらない見栄であり、自尊心の問題であると分かってはいるが、それでもムカつくからしょうがないと、ジョンは開き直る。

 分かっているのに、分かっていない。間違えているのに、正そうとしない。感情に身を任せて、駄々をこねているだけの糞に糞を塗りたくった糞ガキだ。……ジョンは罪悪感と苛立ちをビールに溶かして、無理矢理飲み込んだ。


 ジャック・ザ・リッパー――……。ジョンは酔いの回った、しかしどこか冷めた頭で思考する。

「ママ」は限りなく怪しい。是が非でも本人から話を聞きたい。必ず「ママ」が手掛かりになると、勘でしかない確信をジョンは抱いていた。

「それで私の家族が助かるなら」――。ジョンがメアリーに「ママ」の下への案内を申し出た時、彼女はそんなことを口にした。それを思い出し、ジョンはギッと歯を鳴らす。そんな言葉、この歳の子供が零す言葉か? 自分がしていることに疑問を抱いて外に出て、そして追われて逃げ惑い、何も知らない街の中に閉じ込められ、そんな中でその言葉を口に出来るものか……?


 ――「……本当に、大丈夫?」、「騙されてる」、「怖いことをさせられてる」、「ごめんなさい」、「裏切り者の私が」。言葉と共に、少女の表情までも頭の中で花火のように映っては消える。

 ――「切り裂きジャックを知らないか?」自分の問いに、返答を躊躇ためらったメアリーの顔をふいに思い出して、


「――――うン?」

 ジョンは、はたと目を見開いた。


 強烈な違和感がジョンを襲った。一瞬で酔いから覚めた彼は、口元を手で覆ってその正体を探ろうとする。

 なんだ、何が変なんだ? 今の感覚はなんだ。何かがおかしいが、何がおかしいのか分からない。

 僕の質問、僕の質問、僕の質問。「切り裂きジャックを知らないか?」――、「躊躇う」。……「躊躇う」? そう問われた際のメアリーの顔。驚いたように、思わず反応してしまったという風な。適当に選んだパズルのピースがたまたま嵌まったかのような。その感触こそに違和感がある。


 ――――メアリーは「切り裂きジャック」を知っている。


 メアリーが「切り裂きジャックの認知」への返答を躊躇ったのは、「自分が切り裂きジャックを知っていることを隠したい」からだ。だが、それはなぜだ。あの躊躇いの正体は? 「切り裂きジャック」に答えることを躊躇う必要性……。

 その「何者か」は庇う為に、返答を躊躇った? それは誰だ、メアリーが庇おうとする者――、「ママ」か、家族か?


「――……ジョン?」

 ジュネの遠慮がちな声に、ジョンはハッと我に返った。

「うん? どうした?」

「なんかムズかしい顔してたから、具合悪いのかなって」

「ああ――、いや、大丈夫だ。ありがとう」

 ジョンはすまなそうに笑い、ビールを煽ってジョッキを空にして見せた。

「ジョンが考えたって何になるって言うんだよ! 一見賢そうに見えて、その実、頭の悪い男だぞ!」

 ゲハハハハ! と、汚い笑い声を上げてウイスキーをロックで煽るヴィクター。顔どころか耳まで真っ赤で、完全に出来上がっていた。その様子を見て、ジョンはヤベえな……と、怒るどころか冷や汗すら浮かべた。


 メアリーに目を遣る。彼女は茹でたタコのようなヴィクターの姿に笑顔を浮かべていた。……この子が何を隠すと言うのだろう。彼女は家族を救いたいだけ。考え過ぎだ。ジョンは自分の考えに溜め息をついた。


「アンタ、飲み過ぎじゃないの? 大丈夫?」

「まだまだだよ、キミィ! 次の酒はまだかなー?」

 ジャネットの声すら、ヴィクターには届いていない。

 ジョンはため息をつく彼女を見ながら、

「そう言うお前だって、今日はペースが早いんじゃないか?」

 ジャネットの正面に並ぶジョッキの数を指差した。

 その言葉を聞いて、返答に困ったように「あ~……」と声を上げた後、ジャネットは悪戯を思いついたようにニヤリと口の端を上げた。

「ちょっと飲み過ぎちゃったぁ~。看病して~」

 ジャネットは間延びした声を上げながら、ジョンの腕にしなだれかかり、わざと体を密着させた。

 ザワザワッと後ろ髪までそそり立つような鳥肌が、ジョンを襲う。

「ねえ~、お願い~」

 じゃれつく猫のような仕草で、ジャネットは更にジョンの腕を引き寄せる。

 か、顔が近い……。ジョンは引き攣った顔で、ジャネットの顔を間近に捉える。長い睫毛、濡れた唇、上気した頬に鏡のような瞳。目が回りそうになっているのは酒の所為か、それとも――。

「不純、不純、不純、不純ッ!」

 真っ直ぐに伸びた指でジャネットを指差し、ジュネが警笛を鳴らすかのように大声を上げた。

 我に返ったジョンが、勢い良くジャネットを振り払う。

「お前はもう何度目だよ! いい加減、勘弁してくれ!」

 ジョンは喚くように抗議し、椅子から立ち上がった。

 ジャネットは不服そうに頬を膨らませ、

「何よぅ、相変わらずお子ちゃまねえ、ジュネは――って、ジョン、どこ行くの?」

 もしや、やり過ぎたか――。一瞬だけ、ジャネットの顔に焦りが陰った。


 それを見たジョンはフンと鼻を鳴らし、

「便所だよ。なんだ、付いて来る気か?」

 キョトンとした後、再びジャネットはニヤリと笑い、

「付いて行って欲しいのぉ? しょうがないわね――」

 そう言いながら、椅子から立ち上がろうとするジャネットを制し、「うるせえっ」と吐き捨てると、ジョンは慌てたようにトイレへ向かった。背中を追って来るジャネットの笑い声に、「くそっ」と悪態をつきながら。


 ジョンの後にメアリーが付いて来た。

「わたしも、トイレに」

 小さく笑いながらそう言うメアリーに、ジョンは頷き、トイレまで案内した。

 トイレの中は悪臭がした。誰かが嘔吐したのかも知れない。顔をしかめると、ちょうど顔の高さにある立て付けの悪い窓を開けて換気し、ジョンは便器の前に立って小便をする。

 ジョンは席に戻ろうと戸を開けたところで、別の客と鉢合わせた。黒いパーカーを着た子供だった。フードを目深に被る姿が気にはなったが、ジョンは手を上げると「失礼」と呟き、彼の前を通った。

 その直後、ジョンは鼻を突いた異臭にくしゃみをした。トイレ内の悪臭が外にまで漏れているのだろうか。


「メアリーは?」

「その内、戻って来るだろ」

 ジャネットの問いに、ジョンは素っ気なく返し、煙草に火を点けた。

「それにしてもメアリー……、あんまりご飯を食べてないわね」

 ジャネットがメアリーの席を見ながら、ポツリと言った。ジョンはそちらに目を遣る。確かにメアリーの前に置かれた皿には、料理がほとんど手付かずで残っていた。

「……こういう場所が慣れないんだろう」

 やはり悪いことをしたかもなあ……。ジョンは胸の中でメアリーに詫びる。つい視線は彼女がいるトイレの方へ向いた。


 ……それにしても帰りが遅い気がした。ジョンはジャネットの肩を叩いた。

「ちょっと来てくれ。メアリーを迎えに行こう」

 ジャネットは頷き、ジョンと共に席を立った。

「僕ら以外にも子供を連れてる客がいるみたいだな」

 ジョンはトイレの前で鉢合わせた子供を思い出し、隣を歩くジャネットにそう言った。

「えっ?」

 しかしジャネットはその言葉に面食らい、思わず足を止めた。

「どうした?」


「……ジョン、夜間のパブに子供は入れないわ。アタシ達は顔馴染みだからって、融通が効いたから、メアリーを連れて来られたのよ」


「――――」

 ジョンは押し黙った直後、体を反転させてトイレに向かって駆け出した。

「臭っさいわねえ!」

 ジャネットが鼻を摘んで呻き声を上げた。「いいから」とジョンはジャネットの背中に手を当て、女子トイレへと押し込んだ。

「…………」

 ジョンはスンと鼻を鳴らす。悪臭は悪臭だ。しかし――どこかで嗅いだような気がした。それがどこだったかを考え始めた時、女子トイレのドアが勢い良く開いた。

「ジョン! メアリーが――」

 最後まで聞かず、ジョンはジャネットの手を取って床を蹴った。


 血相を変えて飛び出して来たジョンとジャネットに驚いたジュネが、彼らの下にやって来る。

「どうかした?」

「説明している暇がない。悪いけど、ジュネ、ヴィクターを頼む」

 酔いが回り切り、宙空を見上げてぼうっとしているヴィクターをジュネに任せた。ジョンは店員から手提げのランプを借りると、ジャネットと共に店の外に出た。


「さっき、トイレの前で子供と擦れ違った。多分、そいつがメアリーを連れて行ったんだ」

「なんで、どうして、メアリー……」

 ジャネットはジョンの話を聞いていなかった。

 ジョンは半ば泣きそうになっている彼女の背中を叩いて、

「しっかりしろ。今は泣いている場合じゃない。メアリーを見つけよう」

「げほっ。強く叩き過ぎ」咳き込んで、しかし目を覚ましたジャネットが大きく息を吐き、「行きましょう」


 パブのトイレには窓があった。人目に付かず店外に出るとするならば、そこを使う他ない。ジョンはトイレから覗くことの出来る路地に入る。ただでさえ薄暗い街、主となる道から外れると街頭の数がめっきり少なくなり、より濃い闇としてそこに佇んでいた。手に下がるランプの心許ない光を掲げ、ジョンはメアリーと誘拐犯が進んだだろう路地の先へ進む。その路地は狭く、テラスハウスなどに背を向けられて人通りは少ないと思われた。


「メアリー! 何処だ!」

 ジョンとジャネットは大声でメアリーの名を叫んだ。しかし答える声はなく、二人の声は闇に溶けていく。

 どうする、どうすればいい。目まぐるしく闇に目を配りながら、ジョンは必死に頭を回す。足跡は? 何か痕跡は? 思考と探索は焦燥に駆られたままでは両立出来ず、どちらも取り零している気がした。

 闇雲に走り回っても、疲労しか積もらない。やがて荒い息を落ち着ける為に、二人はどちらからとも分からぬままに立ち止まり、へたり込んだ。


「あーっ、くっそ……。見つからねえ……」

 二人は既に路地を抜け、大通りに出ていた。ようやく見えた街灯の下で、ジョンは悪態をつく。

「本当……、何処に行っちゃったんだろう……」

 メアリーを案ずるジャネットの声も、疲労で喘ぐように弱々しい。


「よう、あんちゃん。悪りいな、火ィ持ってるかい」


「あン?」

 地べたに座り込むジョンの背後から、ふと男の声がした。ジョンが首だけで振り返ると、男が目の前に煙草を持つ手を差し出して来た。


 ジョンはコートの懐からライターを取り出し、もう一度男に振り返った。その一連の作業の中で、ライターを持つ手の手首から出血していることに気付いた――直後、敵意の発露を感じた。

 顔面を薙ぎ払う横殴りの一閃。それをまともに受けたジョンが、歩道から車道へと大きく吹き飛ばされた。

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