4-1.

 ジョン・シャーロック・ホームズは、父であり、英雄だったシャーロック・ホームズが嫌いだった。大嫌いと言ってもいい。それでも師と仰ぎ、自分を鍛えてくれとシャーロックに申し込んだのは、他ならぬ彼自身だった。

 切っ掛けは――あった。彼が初めてシャーロックに「父親」として殴られた時だった。


 その頃のジョンは、自分が「英雄シャーロック」の息子であることを鼻にかけ、近所の子供達に威張り散らす、あまり良くない子供だった。

 それは自身になんのチカラも受け継がれなかった劣等感と、それが露見して、世間に「無能」だと笑われることに怯えていたからだった。彼が世界に対して自慢出来るのは、「有名な父の息子」であるというレッテルしかなかったのだ。

 シャーロックは世界に名を馳せ、それに見合う実績を積み重ねてきたが、「父親」として立派であるとは言いにくかった。強敵と戦って来た人生、その反動なのか、彼は自分より弱い存在をどう扱えばいいのか分からなくなっていた。だから子供であるジョンから――それが悪いことだと理解しながらも――、自分から遠ざかるようになってしまった。

 親友であるジョン・H・ワトソンもシャーロックの父親としての態度について、度々厳しい言葉を彼に向けていたが、シャーロックはそれでも仕事を優先してしまった。


 やがてシャーロックは目にした。息子が自分の名前を使って肘を張る様を。


「自分には何もないんだと語り歩いて、恥ずかしくないのか――ッ!」

 ジョンは生まれて初めて聞いた父の怒号と共に、これまた生まれて初めて頬を思い切りぶん殴られた。

 顔面を陥没骨折、吹っ飛んだ衝撃で手と足が骨折、そして肩を脱臼したジョンは、体の痛みよりも「父に殴られた」という事実の方が何倍も身に沁みていた。

 しかし、ジョンはその衝撃に痺れながら、彼は笑った。笑って、父に中指を突き立てた。


「糞っ垂れ――……!」


 この瞬間にジョンの精神性が確立したと言って、おそらく間違いないだろう。

 身を襲う言いようのない怒りに我を忘れ、ジョンは喚き散らしながらシャーロックに殴りかかった。


 情けなかった。息子の下賤げせんな笑みが情けなくて仕方がなかった。反撃してきたジョンを返り討ちにして失神させ、彼を搬送した病院でワトソンの冷たい視線に突き刺されながら、シャーロックはそう語った。しかし病室で寝込むジョンを振り返って、笑ったと言う。


「――だが、俺に拳を向けて来た。俺と戦おうとしたんだぞ、君。いい根性していると思わないか?」

 その笑顔はとても嬉しそうだったそうだ。ワトソンに溜め息をつかれ、ジョンの代わりにと殴られながらも。


 翌日、怪我も治らぬ内にジョンは父に再び中指を立て、そしてこう言った。

「いつかブッ殺してやる――」

 だから力をつけてくれ。ジョンの言葉に、シャーロックは笑い、そして了承した。

 父と子、そして師と弟子の関係が築かれた、その瞬間だった。


「――ね、バカでしょ?」

 そうメアリーに語り掛ける少女の高い笑い声が、部屋中に響き渡る。


 ジョンはそれを聞きながら、しかし決して視線を少女の方へ向けないまま、不機嫌そうに煙草を吹かす。いつの間にか灰皿に吸い殻が山のように積もっていた。彼は自分の過去を蒸し返されるのが嫌いだった。彼にとって自身の過去は、恥辱の塊だからだ。

 灰が蓄積していく速度はジョンの機嫌の悪さと比例している。それが分かっているヴィクターは戦々恐々の思いで震えていた。対して、ジュネはハアと溜め息をついて、


「ジャネット、はしゃぐ気持ちも分かるけど、そろそろ服を着なさいよ」


 ジョンが少女に目を向けないのは、彼女がいつまでたっても下着姿のままだったのも理由の一つだった。

 ジャネットと呼ばれた少女はメアリーからジュネへと視線を移し、その後に自分の姿を見た。

「あら、いけない。うっかりしてたわ。ところでジュネ、このブラ、可愛くない? ここのリボンのワンポイントが――」

 ジャネットの言葉を遮る打撃音。ジョンがテーブルを殴った音だった。

「いい加減にしろよ、お前! 何がワンポイントだ、フザけてんのか!」

 唾を飛ばしながらジョンが喚くようにそう言うと、ジャネットを刺すかのように指を突き付けた。

 首を傾げたジャネットが、キョトンとしたままジョンに返す。

「フザけてないわよ?」

「いやフザけろよッ!」

 ジョンが愕然と声を飛ばす。ジャネットはそれを鬱陶しそうに手で払い除けて、


「うっさいわねえ。アタシがどんなブラを着けようとアタシの勝手でしょ? 恥ずかしくって、こっちを見ることも出来ないヘタレのクセに」

 グッと言葉を詰まらせるジョン。その視線は思わず彼女の胸元に――、

「――――ッ」

 ジョンはジャネットに背を向け、ソファーに尻を落としてまた煙草に火を点けた。


 苛立ちを他人に押し付けるような彼の態度に、しかしジャネットは悪戯っ子のようにニヤリと笑った。彼女の目はジョンの耳が、まるで茹蛸のように赤くなっているのを見逃さなかった。

 静かにジョンの背後に近付き、しなだれかかるように彼の首に腕を回した。ビクリと飛び上がるジョンの耳元に口を近付けて、熱っぽい吐息と共に囁きかける。

「じゃあさあ、ジョンは、女の子に――アタシに、どんな下着を着けて欲しいの……?」

「な、なななんでそんな話になるんだよ……ッ」

 ジョンは努めて冷静さを保とうと心がけたが、煙草を持つ手の震えが隠し切れなかった。ジャネットは再び悪戯めいた笑みを零す。

「シースルーなセクシーなヤツ? それともフリルの付いたキュートなヤツ? それともそれとも――」

 ジャネットに誘導され、ジョンの脳内には彼女が語る下着を着けたジャネットの姿が次々と浮かんでいく。連鎖するように全身の震えが酷くなっていき、やがてポロリと煙草を取り落とした。


 そんな二人をいつの間にか、冷ややかな視線で見下ろすジュネ。

「――不純よ、二人共」

 その落ちて来た低い声に、調子良くなっていたジャネットの体がビクッと震え、動きが止まる。ジョンはそれどころではないとばかりに、文字通り頭を抱えていた。

「僕は関係ないだろう! 非難するなら、そこにいる痴女に言え!」

「ち……ッ!? ちょっと待ちなさいよ、痴女はないでしょ! これでも聖職者なのよ!?」

 ジャネットは聖都で従事する祓魔師ふつましだった。聖職者は決して自称ではない。

「いいから貴女は服を着て来なさい!」

 雷のような怒声に、ジャネットは不服だと文句を言いながらも着替えを手に、バスルームへと向かう。


 ようやく解放されたと、ジョンは大きく息を吐いた。

「あーっ、くっそ。あの糞女、一体なんなんだよ」

 再び煙草に火を着けようとしたところで、ジュネがジョンの唇から煙草を奪い取った。

「おい――」

「吸い過ぎよ、ジョン」

 顎でテーブルの上の灰皿を指す。ジュネに促されたジョンがそちらを見れば、積もった灰は皿から零れ落ちていた。

「……それもこれも、あの糞女の所為だ」

 忌ま忌ましげにそう吐き捨て、ジョンは大仰にソファーに背を預けた。その隣へ、メアリーがちょこんとやって来る。

「楽しそうだ、ね」

「…………」

 屈託のない笑顔でそう言うメアリーに、ジョンは「どうしてそうなる」と唸った。

「ジャネットお姉ちゃんとシャワーを浴びたよ。すごく優しかった」

「……気をつけろ、あいつは小さいモノと可愛いモノに目がないんだ」

 ジョンは遠くを見ながらそう言った。そんな彼の様子にメアリーは首を傾げ、

「……? どういうこと?」

 ジョンは首を振って答えず、「なんでもない」と呟いた。


「少なくとも、ジャネットは実に楽しそうだったねえ」

 椅子に座ったままクルクルと回りながら、ヴィクターはそう言った。室内の現状に怯えていた彼は、一周回って楽しくなってきたなあと解決を棚上げし、事態を静観していたのだった。

「お前はうるせえよ。――メアリー、君は大きくなってもあんな羞恥心のない痴女になっちゃいけないよ」

「だから、痴女じゃないっての!」

 バスルームから出て来た鋭い声。ジョンは再び息を吐いて、そちらに振り返って彼女を見た。


 動き易さを求め、袖や裾を切り詰めた修道服。頭巾を被らず、編み込んだ長い金髪を背中に垂らしていた。紺碧の目は彼女の精神性を示すように吊り上がり、鋭い眼光を光らせていた。両手、両足に着けた十字の意匠が施された装身具。露わにする両太腿に巻かれたホルスターには銀色に光る拳銃が差してあり、異質な存在感を放っていた。

 シスターと呼ぶには余りに物騒な恰好、剣呑な態度、無骨な武装。その異質な少女の名は、ジャネット・ワトソン。ジョン・H・ワトソンの娘、ジェーン・ワトソンの双子の姉。


「聖都所属の痴女がなんでここにいるんだよ」

「ジョン、しつこいわよ」

 ジュネの一喝に、憮然と顔を曇らせるジョン。それを見てニヤリと笑うジャネットに、

「ジャネットもいい加減にしなさい。オトナなんだから」

 ジュネによる再びの鶴の一声。憮然とするのはジャネットの番だった。

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