1-1.
六月に入り、英国は過ごし易い気温が続くようになった。その首都、
ふいに吹き付けた風に、彼は黒いモッズコートの襟を寄せて身を固めた。ボサボサの髪が風に吹き荒らされて、更に酷い有様になっていく。風が止む頃に一層目付きを険悪にすると、また歩き出した。
ブーツと石畳がぶつかる音が一定の速度を保ったまま、休みなく続く。彼の足は真っ直ぐに首都北部にある王立公園を目指していた。
少年は公園の外周を辿り、小さな湖に辿り着く。そこにある広場には、小さな人だかりがあった。
痩せた長身を薄黄ばんだ白衣で包み、
少年は男の目の前に立つと、「まだ終わってねえのか」と不機嫌そうな声を出した。
男は顔を上げると、「おや」と口を開いた。
「やあ、ホームズ! いつも通りの仏頂面、いい加減見飽きたよ!」
少年――ジョン・シャーロック・ホームズは、男の軽口に鼻を鳴らした。
「よう、ジュニア。次に僕をその姓で呼んだら殺すぞ」
「ハハッ! 相変わらず機嫌が悪いじゃないか!」
ジョンは威嚇するように睨み付けたが、男は意に介さず笑った。
傍にあった椅子を足で寄せ、それに大仰な態度でジョンは座った。そして立ち並ぶ人々に目を遣る。
二人一組で並ぶ人々。片方は突然やって来たジョンに訝しげな視線を向けているが、もう片方はそうではなかった。
彼らの顔に表情はなかった。眼球はガラスのように無機質で、等間隔で続けられる呼吸。挙動一つ一つが、まるで手本の再現のように嘘臭かった。
それもその筈。彼らは人であって、人でない。――生きている死体なのだ。
致命的損傷を受け、魂と別れを告げた肉体――死体に機械的な補佐と補修、精神に接触する事で、生前と同じような代謝、活動を可能にする技術。要するに「生きている死体」を生み出す技術だ。
「復活の日に向けた恒久的な肉体の保存」を旨としたその技術の開発者の名を、ヴィクター・フランケンシュタイン。
ジョンの目の前にいる男は、その『
「そうして待っていてくれよ。今並んでいる患者達の診察が終われば、今日のボクの仕事は終わりだ」
あと十人くらいはいるな……。ジョンは果たしてどの程度待ちぼうけを喰らうのかを計れずにいた。
突然現れ、不遜な態度を取るジョンを目にし、患者の付添人――、「人形」の持ち主達がひそひそと何事かを囁き始めた。
「あれが例の……」、「シャーロックの息子……」、「先生になんて態度だ」、「親とは似ても似付かない……」、「なんの才能もない……」、「乱暴者だとか……」、「無能だと」、「一体どう責任を」、「あいつの所為で」、「シャーロックもワトソンも」、「その娘さえも」、「原因はあいつなんだろう?」――。
聞こえて来るのは昏い声。損失が生み出す不安が影を持ち、やがて実体を伴う言葉を経て刃へと変貌する。
その一刀を受けたジョンは、一層目付きを険悪にして付添人達へ振り返り、睨み付けた。途端、視線を逸らすのは付添人達だった。そんな様子を見、ジョンは良く響くように強く舌打ちした。
肩を怒らせる彼の背中を突つく小さな手。ジョンは再び振り返ると、ヴィクターと同じように白衣を身に付けた、胡桃色の目と髪を短く揃えた小さな体の少女を見つけた。彼女はジョンと目が合うと顔を綻ばせて、
「ジョン、ここに来るなんて知らなかったわ」
彼女はジュヌヴィエーヴ・ルパン。かの有名な大泥棒、アルセーヌ・ルパンの娘。
「よう、ジュネ。お疲れさん」
「コーヒーと紅茶があるけど、ジョンはコーヒーの方が好きよね?」
鉄製の小瓶を両手に掲げ、ジュネは首を傾げた。それは機械工学、製造技術に長けたジュネお手製の保温性に秀でた水筒だった。
ジョンは「紅茶でいい」と答えた。
「お前の淹れたコーヒーは不味いからな。ジェーンなら――」
そこまで言って、ジョンは口を
ジュネはそんなジョンを見て、慌ててカップに注いだ紅茶を差し出した。
「ジョン、飲んで。暖まるから……」
差し出されたカップを受け取ったジョンはしかし、口にする事なくただ押し黙っていた。両手で掴むカップを、今にも握り砕かんばかりに震わせながら。
ジェーン・ワトソン。彼女の名を思い浮かべるだけで、胸の中にどうしようもなく血が滲む。
どうして、なぜ――。そんな言葉ばかりが頭の中を増幅し、反響する。責めるような、攻めるような、締めるような言葉の応酬で意識が支配されそうになる直前、ジョンは自分の頭を撫でる小さな手の感触に目が覚めた。
ジュネが小さく「大丈夫、大丈夫」と繰り返しながら、ジョンを宥めるように何度も彼の頭に自分の手を滑らせる。
ジョンは大きく息を吸って、吐いた。
「……悪い、ジュネ。もう落ち着いた、大丈夫だ」
やや自嘲気味に口の端を曲げ、ジョンは紅茶を飲んだ。
自分よりも遥かに小さな矮躯の少女に慰められた。まったく、年上の癖に情けない……と、ジョンは嘆息した。だが、こんな経験は今までに何度もあり、反省すると共にジュネは本当に年下なんだろうかと毎度疑わずにはいられなかった。彼女の声と仕草には、そういう不思議な力があった。
ジュネは「良かった」と言って笑い、ヴィクターの下へと向かった。彼女はヴィクターの助手なのだ。
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