仔ウサギ達の憂鬱

石燈 梓

仔ウサギ達の憂鬱(1)



「おかえり、リサちゃん」


 学校から帰ったわたしが、スタッフ用入り口からフロント奥の部屋に入ると、アニーさん(アンソニー、安藤家の二男)が迎えてくれた。焦茶色の口髭をゆらして、四角い顔に人懐っこい笑みをうかべる。わたしは微笑みかえし、カウンターに歩み寄った。


「ただいま、アニーさん。今日は芳美よしみちゃんじゃなかった?」


 夕食の時間帯のフロントは、麻美あさみちゃんと芳美ちゃん(安藤家の十代の双子姉妹)が交代で入ることになっている。夜勤担当のアニーさんがいるのは珍しい。そう思って訊ねると、彼はロビーを指さした。


「お友達?」

「学校から一緒に帰ってきたんだ。以来、ずっとあそこにいる」


 これも珍しい。ジュニアスクールに通う双子たちは、フロントを自分たちの仕事と心得て、毎日きちんとこなしている。当番日に友達を連れてくるなんて。

 ロビーの片隅には、このペンション・ホテルの名の由来となった月産のウサギが飼われている。そのガラスケージの傍らに、芳美ちゃんともう一人、赤いチェックのスカートをはいた同年代の女の子が佇んでいた。明るいブロンド色の髪がふわりと肩にかかっている。マスクをしているので口元はみえないけれど、お喋りしているらしい。

 アニーさんは手元の時計をみて、口髭をこすった。


「もう二十時だ。どうするつもりだろう?」

「そうね……」


 アニーさんが案じているのは、子ども達の夕食だ。十代の女の子が、平日のこんな時間まで遊んでいるのは良くないだろう。ご両親は承知しているのだろうか? そう考えたらしく、彼はフロントから呼びかけた。


「芳美。お友達は、そろそろ晩御飯の時間だろう。家はどこ? 送ろうか?」


 少女達は、ぱっとこちらを振り向いた。それから顔を見合わせると、小走りにこちらへ駆けて来た。芳美ちゃんのお友達は、マスクの上の大きな碧色の瞳でアニーさんを見上げた。


「芳美さんの、お父さん?」


 アニーさんは太い腕を組んでカウンターにのせ、ははっと笑った。


「こんな大きな娘を持とうと思ったら、俺は君くらいの歳で結婚していないといけないね。あいにく、まだ独身だよ」

「お兄ちゃんよ。二番目の」

「お兄さん……」


 芳美ちゃんが囁くと、少女はきらきら輝く瞳でアニーさんを観て、わたしをちらっと観て、またアニーさんをみつめた。そこに宿る懸命な眼差しに、わたしはひらめいた。これは、もしかして。

 少女は胸の前で両手を組み、アニーさんに懇願した。


「安藤さんの家ってホテルだから、泊めてもらえるんですよね。私、お金は持っています。泊めてくださいっ。」

「えっ?」


 アニーさんは普段ほそい眼をみひらき、ぱちくりと瞬きをした。

「ええっと、君、」

 アニーさんは、柔らかな黒褐色の髪をぼりぼり掻いた。芳美ちゃんは黙って彼と友人の会話を見守っている。


「ブラウンです。エイミー・ブラウン」

「それじゃあ、エイミーちゃん。あのね、ダイアナ市の条例で、ホテルは未成年者を一人で宿泊させてはいけないんだよ。保護者の許可がないと」

「保護者……」

「そう。ご両親は君がここに来ていることを知っているのかい? 晩御飯はどうする?」


 問われると、エイミーちゃんは項垂れてしまった。その表情を観て、わたしは察した。――帰りたくないのね、この子。もしかして、家出?

 わたしは芳美ちゃんを見遣ったけれど、彼女も事情を知らないらしい。眉根を寄せて小さく首を振った。


「芳美、何やってんの? って、あれ?」


 アニーさんが途方に暮れていると、エレベーターから麻美ちゃんとマーサさん(安藤家の長女)が降りて来た。芳美ちゃんが食堂に現れないので、呼びに来たらしい。麻美ちゃんは、ポニーテールにまとめた赤毛を揺らして首を傾げた。


「ブラウンさん、来ていたの?」

「お友達? どうしたの、芳美」


 大人達に囲まれ、エイミーちゃんは気圧されたように黙りこんだ。麻美ちゃんにも彼女の事情は判らないらしい。双子が(最近、麻美ちゃんは毛先をカールさせた髪をポニーテールに、芳美ちゃんはストレートにしているので、見分けるのは簡単)顔を見合わせていると、


「エイミー!」


 正面入り口の自動ドアが開いて、三歳くらいの男の子の手を引いた女性が入って来た。よく似たブロンドの髪で判る――この人が、エイミーちゃんのお母さん。

 エイミーちゃんは、嫌そうに顔をしかめた。


「ママ、どうして」

「あなたが帰って来ないから、学校に訊ねたのよ。安藤さんと一緒だったと聴いたから」


 若いお母さんだな、と思った。マーサさんより少し年上だろうか。細身で、身長はわたしくらい。こざっぱりとした緑色のワンピースを着ている。蒼ざめてみえるほど色白で、やつれた雰囲気がした。怯えたように眼をみひらいている。

 アニーさんが慌てて立ち上がった。


「エイミーちゃんのお母さんですか。どうもスミマセン、ご心配をおかけして。遅くなったので、送って行こうと話していたところだったんです」

「いいえ! ……いえ、こちらこそ」


 いちど強く首を振り、それから彼女はぎくしゃくと頭を下げた。エイミーちゃんは母親から顔を背けている。


「こちらこそ……ご迷惑をおかけして……。連れて帰ります。エイミー」

「いや!」


 母親につかまれた腕を、少女は乱暴に振りはらった。ちょうどエレベーターから降りて来たミッキーが、この光景に足を止める。布製のマスクに覆われていたけれど、少女の抗議は悲鳴じみて聞こえた。


「いや! あたし、帰らない。あんな奴のところ」

「エイミー、わがまま言うんじゃないの」

「わがままなんかじゃないわよ! ママだって!」


 母親が片手を振り上げたので、わたし達は一斉に息を呑んだ。エイミーちゃんは、どんと彼女を押しのけた。途端に、彼女は胸に手をあててうめき、(とても十二歳の少女に押されたとは思えないほど)よろめいた。

 わたし達は驚きのあまり動けなかった。間に合ったのはミッキーだ。彼は後ろからエイミーちゃんのお母さんに駆け寄って彼女を支え、危うく転びそうになった男の子を抱き起した。

 アニーさんが、ほっと息を吐いた。


「ミッキ」

「……そんな怪我をしているのに。帰っても、何もできないでしょう」


 エイミーちゃんはギョッとした表情で凍りついていた。ミッキーはブラウン夫人を自力で立たせ、静かに言った。


「少し休んでいってはどうですか。それとも、病院へ行きますか? 麻美、芳美、食堂に案内してあげなさい」





~(2)へ~

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