隣人
レオニード貴海
第1話
いま思うと僕が彼女を見つけたのではなく、彼女が僕を見つけたのかもしれない。
鉄瓶を使って沸かした湯を、インスタント粉を入れた陶器のカップに注ぎ入れる。祖父から譲り受けたカップは少し小さい。こんな使い方、怒られるのじゃないかと、そんなちょっとした罪悪感も、繰り返している内に随分と薄れてしまった。罪の意識も摩耗していくのだ。時の力。
――ピンポーン
呼び鈴が鳴る。僕は古い壁掛け時計を見上げた。針は六時五十分近くを示している。早朝。テレビドアホンの映像には何も写っていない。いや……猫がいる。黒猫だ。僕は首を振り、まだ湯気を立て始めたばかりのコーヒーを諦めて席を立った。
「普通はまず返事をするものじゃないの?」
黒のパーカーにストレッチ・ジーンズ、黒の革靴。たっぷりとゆとりのあるフードは顔の上半分を覆い隠している。丸眼鏡。肩の上には先刻の黒猫が腰を据えている。
「猫相手に?」
黒猫がにゃあむ、と一応の抗議でもするようにして事務的に鳴いた。
「イーペルよ」
「知ってますよ」
小鳥の毛づくろいのような短い沈黙。
「こんなところで立ち話もなんだし」
僕はくりくりと目を泳がせた後、とくにあるわけでもない威厳を形ばかり持ち直し、よく聞こえるようにしっかりと力を込めてため息をついた。それから、冗談言わないでくださいよ、という目でうつむきがちに彼女を見上げたが、もちろん効果はなかった。
「わかりました。着替えるので、十分……いや五分待ってください」
作業着で上を隠してはいるが、下半身はまだジャージのままだ。相手がどこの何者であれ、異性を部屋に入れるのには最低限の準備というものが要る。異論は甘んじて受け入れる。あくまで僕のポリシーに過ぎない。
玄関ドアを閉めようとすると、彼女は両手を右、左と上下しながらコの字型のマンションの角で体を揺らし始めた。傍目に見れば堂々たる変人である。向かいの714号室からは間もなく老夫婦が姿を現すだろう。ルーティーンの朝散歩に向かうために。
「舞ってじゃないです、ほんの五分ですからじっとして待っていてください」
「か弱い乙女を朝の玄関口にひとりで立たせておくの?
あなたに比べたら僕のほうがよっぽどか弱い、とは口には出さずに、僕は断固として首を横に振った。
「五分後に来てください、それまでは部屋で華麗なダンスの続きをどうぞ。すぐそこなんだから」
魔女は首を斜めに傾け、テングタケ属の毒キノコでも見るようなやくざっぽい目で僕をじいっと見た後、しかたないわね、と僕ではなく肩の黒猫に向かって小さくつぶやき、階段隣の自室へと戻っていった。彼女が扉を開けるのに合わせて、僕はドアを閉めた。念の為にのぞき窓から彼女の部屋口を見やる。魔女の姿は既になく、猫が隙間から中へとはいると、扉は音もなく閉じた。
◇
――ピンポーン
入り口の戸を開く。
「もういいかしら」
「どうぞ」
嫌味なくらいにぴったり五分で現れた女は、まるで自分の実家にでも帰ってきたみたいにずんずん居間へと歩き進み、特に断りもなくダイニング・テーブルの客席に腰を落ち着け、分厚いフードを脱ぎとって壁にもたれた。呪いみたいにカールした真黒い髪。重たそうな灰色雲に遮られた弱い朝日を浴びて、しっとりとした光を帯びる白いうなじ。ほんの一瞬見とれた僕に針を刺すようにして、丸眼鏡の奥から視線が飛ぶ。
「
「別に穢れてないですよ、安いだけです」
僕はコーヒーカップを持ち上げてみせた。
「砂糖は多めでお願い」
「飲むんですね?」
魔女とは半年になる。名は柊典子と言うらしいがよほど怪しい。それだって聞き出すのに三ヶ月を要した。だがたとえ仮なのだとしても名があるのとないのとでは雲泥の差がある。いかなる事物にも呼び名は必要である。そうじゃないと、ヘレン・ケラーはウォーター!と叫ぶことすらままならない。あらゆる合意形成の根本には何と言っても名前が要るのだ。
「もう少しまともな場所に引っ越そうとは思わないの」
僕はずるずると音を立てて冷めたコーヒーを飲みながら、熱い液面を揺らす透明な唇に目を奪われていた。一方の心の
「ないですね、いまのところ」
部屋は祖父の死後に譲り受けたものだ。これと言った財産もなく、兄弟は死んだ姉がひとりいるだけだったからほとんど自動的にまるごと僕が受け継ぐことになった。継ぐと言っても、ただ住んでいるだけだ。水道光熱費と年間の固定資産税・都市計画税を支払えばほとんどタダ同然で暮らすことができるのだから、うだつの上がらない日雇い肉体労働者の僕にとっては実にありがたい寝床であった。
「毒気があるわよ、この部屋」
「なるほど、確かにキノコなんか生えているかもしれませんよ、近頃カビ臭い」
寝室の扉がわずかに開き、ふああ、とあくびをしながらりんごの紳士が現れた。
「おやおや、これはこれは大魔女様、おはようございます」
彼女は「グッド・モーニング」と無表情のままで応える。
以前に土産と言って魔女から渡された品だ。隙を突いて包丁を振り下ろしたが、間一髪で逃れられた。以来家に住み着いている。僕が仕事の日の朝はたいがい寝ているし、夜は簡単な夕食を準備してくれていたりするから、結果としては生かしておいてよかったのかもしれない。休日は、読書やアマゾンプライムの映画視聴を邪魔されたり、足元をうろちょろしていたり正直うざったいことも少なくないが、しかたのないことだと半ば諦めている。何事にも表裏がある。光には陰がついてくる。この世界に何かが存在するというのは、つまるところそういうことだ。
りんごは器用に収容棚の取っ手をつかみ、体を揺らしながら調理台の上まで登ってくる。爪楊枝を改造した歯ブラシを使ってごしごしと白い歯を磨く。小動物の押し殺したような鳴き声。一瞬の躍動。黒い影が飛びその鋭い爪がりんごの薄い赤い皮に達する紙一重手前で、魔女がイーペルを捕まえた。
僕は思わず後ずさって、コーヒーを少し零してしまった。コーデュロイのシャツに小さなシミが付着する。デジャヴュ? 以前にも似たようなことのあった気がする。典子さんはゆっくりと席へと戻り、テーブルの上に猫を置き背中をなでた。イーペルは気持ちが良さそうに表情を緩め、猫なで声を上げた。りんごがシンクの下で口を開けて待っている。僕がはっとして近づき蛇口をひねると、りんごはがらがらと口を
いつもどおり毒にも薬にもならない雑談を三、四十分ほど続けた後で、ふと彼女は言った。
「あなたはここを出るべきと思うわ」
この頃言われるようになった言葉で、初めてではなかったが彼女の真意を測りかねていた。僕と別れたいということなのだろうか、などという思わぬ感情が不意に湧いてきて少しく驚く。大した美人ではなくとも際限なく部屋を訪れ、何をするでなくともただ同じ時間を共有した異性というのは、当人が理解するより早くに心の凹みに溜まりを残すものらしい。要するに原始的な本能に触れる。
僕はぐい、と残りのコーヒーを飲み干し、ステンレスシンクの上に陶器のカップを無造作に置いた。があん、という耳に障る音がして、なんだか怒っているみたいな雰囲気が流れてひとりで勝手に居心地が悪くなる。
「今日は帰ってくれませんか、ちょっと気分が優れないんです」
僕がそう言うと、魔女はしばらく黙った後、徐に立ち上がって部屋を出ていった。何故か急に申し訳ない気持ちになって後を追い、玄関口で革靴を履く彼女に声をかける。
「ごめんなさい」
「いいのよ」
彼女が去ってしまうと、突然だだっぴろい洞窟の中に取り残されたような心細さが胸を襲ってきた。寝室から出てきたりんごが僕に訊いた。
「おや? 大魔女様は?」
見ると以前こしらえてやったミニ・タキシードを着ていた。アイデアルのチョコレート傘をステッキ代わりについている。彼は紳士なのだ。
隣人 レオニード貴海 @takamileovil
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