第4話


 女が男装をして学生生活を送る。それは困難を極める。

 それが露見しないように努力する眞己の苦労はそれはもう筆舌しがたいが、それだけでリンが女だということを誰にも知られないようにするというのは、到底不可能だ。

 当たり前である。トイレから、体育の授業、果ては身体測定まで、問題点は多々あるのだ。


 それではなぜ──リンがいまだに女だとばれずに、学生生活を送れているというと、それは──


 ここで、意識は現実へと戻される。

 それは、とある女性の声が原因だった。


「おい。眞己はいるか?」


 そのハスキーボイスは一度聞けば忘れることはないものだった。その姿を含めればなおさらである。どこか神秘的なネコ科の動物のように切れ上がったまなじり、ざっくりと短く切り詰めた黒髪。化粧をしているように見えないのに、信じられないほどきめ細やかな白い肌をしていて、唇は鮮やかな赤色だった。そしていつも白衣を身に着けていたりする。


「な、鳴海なるみ先生……」


 眞己は戦慄とともにその名を呟いた。この学校の保険医であるが、自分はこの女性の正体を知っていた。


「な、なんの御用でしょう?」


 その声は情けないことに震えていたかもしれない。

 その美貌に薄い笑みを張り付かせ、鳴海は言った。


「顔をかせ」


「はい……」


 断るという選択肢はありえなかった。はっきりと苦手なのだこの人は。


 ファーストコンタクトからして最悪だった。

 いきなり足をかけられたのだ、しかも階段で。洒落にならならなかった。眞己は階段を転げ落ち、頭を強く打って気絶したのだ。一歩間違えば死ぬところだった。


 それで、保健室に連れて行かれたわけなのだが──


 目を覚ましたとき、眞己は手足を拘束されベッドの上に転がされていた。

 またこのパターンかよ。最初に思い浮かんだのはそんな言葉だった。


「目が覚めたか?」


 その特徴的なハスキーボイスでそう問われた。なぜかやたらと切れ味のよさそうなメスを持っていた。

 本当に勘弁してほしいのだが。


「どういうつもりですか?」


「なんだ。反応が淡白だな」


 つまらん、と彼女が鼻を鳴らした。

 勝手なことを言うな、とはもちろん言わない。


「そんなものを持って、怪我でもしたらどうするんですか?」


「ん、安心しろ。こう見えても医師免許を持っている」


 いや、そういう問題じゃないから。


「まあ、冗談はここまでだ」


 冗談で刃物を持ちだすのかあんたは。


「姫宮燐についてだ。知っていることを全て吐いてもらおうか」


 眞己は完全に言葉を失った。

 これは俗に言う、究極の選択というやつではないだろうか。


 ここでリンについて洗い浚い喋れば、後でリンによって殺される。

 だが、喋らなければ、今ここでこの女に殺される。


 どうしろっていうんだ。姫宮家の政敵に狙われているとリンから聞かされてはいたが、まさか学校内で、自分が被害に遭うとは考えてもみなかった。


「どうした? 話しにくいんだったら、その口を軽くしてやろうか? 指の二、三本でも切り落とされれば、素直になれるだろう?」


 その美貌を獰猛に歪めて笑うその様は、まさしく本気だった。


「……わかった。わかりましたよ」


 ここで眞己は観念をして選択をした。


「リンは……なんだよ」


「あん、なんだって」


 眞己の言葉の不明さに、女が顔を寄せる。痛いからやりたくはなかったのだけれど、そう贅沢も言ってられない。


「だから、リンは──」


 ここで、眞己は覚悟を決めた。思いっきり舌を噛んだのだ。口内に血が溜まり、堪らずに咽た。唇から血が漏れ出る。


「……ぐっ!」


「なっ、おい……!」


 女が慌てたように、身を寄せた。瞬間──

 ──口に含んだ血を思いっきり相手の顔に吹きつけた。


 舌を噛み切ったと偽装し、さらにそれを利用して簡易的な目潰をしたのだ。


 女が怯んだその隙を見逃さずに、眞己は腹筋に力を込め一気に上半身を跳ね起こす。その勢いを利用し、渾身の力で頭突きをかます。

 こちらも目から火花が出るほど痛かったが、相手はもっと痛いだろう。


「……ッ!」


 悲鳴を出すこともできず、女が仰け反り持っていたメスを落とした。眞己はそれを目掛けてベッドから転げ落ちた。後ろ手に縛られた手で何とか握ろうとする。指が冷たい感触を引っ掻いた。もう少し。あと少し。そして、指がメスを掴もうとした瞬間──


「ぐぅえぇぇぇ──ッ!」


 信じられないほどの衝撃が腹腔を貫いた。蹴られたのだと認識したときには、身体は宙に浮かび、胃の中身を吐き散らしていた。


「うげぇ……っ。おぇ……っ」


 そして床に叩きつけられて咽た。口の中に残っていた血と唾液と胃液の混じったものがだらしなく吐きだされる。


「おもしろい事をやってくれるな……ッ」


 その声はどこまでも冷たく、それでいてどろりと纏わりつくほど熱かった。肌が粟立ち、背筋を這い蠢くような怖気がはしった。身体がおこりのように振るえるのを止めることができなかった。


 それでも、生理的に浮かんだ涙を瞬きで落としながら上を向くと、視界がぼやけてほとんど見えなかった。先程の衝撃でメガネがどこかに吹き飛んだらしい。それでも声のするほうを敵意を持って睨みつけてやった。


「本当に、おもしろい……」


 視界が不鮮明でも、女が笑ったのがわかった。顔を鮮血に染めてなお、死天使のごとく優雅に、そして生きとし生けるもの全てに恐怖を与えるほど美しく。

 我知らず歯が鳴った。心臓を直接握られているイメージが頭から離れない。自分の身体を掻き抱こうとして自分が縛られていることを改めて思い出した。たぶん自分はここで死ぬのだろう。それでも女を睨みつけるのだけはやめなかった。


「合格だ」


「は……?」


 先程まで充満していた殺気の奔流がやんだ。わけがわからず、目を瞬いているといきなり視界がクリアになった。女がメガネをかけてくれたのだとわかったが、意図は相変わらず不明だった。


「なんのつもりだ?」


「ん、だから合格だと言っている」


 女は濡れた布巾で血を拭いながら、顔を顰めた。恐る恐る頭突きされた額を触っている。


「オレは なにに合格したんだ?」


「リンの護衛にだ」


 ……ああ、なんだろう。このやるせない徒労感は? これはあれだな、試されたというか、踊らされたというか。

 もうこのまま寝てしまってもいいだろうか。そうすれば、これは夢だったという淡い期待を胸に明日を迎えられる。

 だが、そうもいかなかった。


「ほら、もう手足をほどいてやったろ。さっさと起きろ」


 目を閉じて現実逃避をしている間に、縛めは解かれていた。

 眞己は特大のため息を吐きつつ、身を起こした。その際、蹴られた腹がシクシクと痛んだが、表には出さずに縛られていた手足をさすった。


「で、貴女はどこの誰で、リンとどういう関係で、なにが目的なんですか?」


 そう問うと、彼女は笑った。ここでやっと気がついた。その行動だけでなく恐ろしく容姿が彼女と似ている。


「私は、鬼道鳴海。燐とは従姉妹で、目的は彼女を護ること、だな」


「うわァ、最悪。帰っていいですか?」


「駄目だ。話はこれからだからな」


 これからの話はかなり長かったので要約させてもらう。

 要するに、彼女は養護教諭としてこの学校に赴任し、影から彼女を支えるためだという。まあこれが女であるリンが男として学生生活を送ることができる理由であったのだだが。


 そして、彼女はリンの幼い頃から彼女を護っていたらしい。内外の政敵などから。医者なども信用できないから、自分で医師免許を取得するほどの念の入れようである。それにもかかわらず、リンは何度も死線をさまよったらしい。ハッキリとそんな危険なところに自分を巻き込まないでほしいが、もう遅い。これでもかというぐらい関わってしまった。


「それで、護衛という話でしたけど、貴女がいればオレなんて必要ないんじゃないですか?」


「そうでもない。学校という閉鎖空間では、教員である私よりも生徒であるお前のほうが燐を護りやすい。わかるだろう?」


 そう言って彼女は獰猛な笑みを浮かべた。それは肉食獣の笑みに酷似していた。

 眞己はため息をついた。これを断れないことはわかっていた。それでも皮肉の一言ぐらい言ってやろうと思っていたのだが。


「さて、もう一度、念を押して言っておこう」


 彼女のたおやかな手が眞己の頬に伸ばされた。


「私は燐のことを実の妹のように可愛がってきた。それこそ目に入れても痛くないほどの可愛がりようだったと自負している。それなのに──、その可愛い妹は今も内外の敵に狙われ続けている。さっさと腹違いの弟に当主の座を渡してしまえば、命を狙われることもなく、女として自由に生きることもできたのに、弟のためにそれもせず、貴重な十代の時間を喰い潰しているんだ。だから、わざわざ姫宮家の影響が少なく、立地的にも外敵が侵入しにくいこの学園を選んで入学させたんだ。女としての幸せを得られなんだったら、せめて楽しい学生生活だけは送ってほしいというのが私の願いだったからだ。わかるか? 彼女を護るためだったら、私はこの手を血で染めることも厭わないし、どんな汚いこと平気でおこなえる。いくらでも畜生道をいけるんだ。だから、私は燐のためにお前を犠牲にすることになんの躊躇いもないぞ」


 いつのまにか咽喉がからからに干上がっていた。冷や汗が頬を流れる。それを酷くやさしく繊手が拭ってくれる。


「私がいないときは、お前が燐を護るんだ。わかるな?」


 眞己は、皮肉を言うことすらできなかった。

 

 そして、鳴海に呼び出され、眞己は再びここ──保健室にいた。


 できれば、二度と来たくなかった、こんなところ。あれは激しくトラウマだ。


「で、今回はなんの用ですか?」


「ああ、お前に渡すものがあってな」


 イヤな予感はあった。だが引き返すこともできなかった。


「な、なんでしょう……」


 声どころか、身体の芯まで震えていた。


「これだ」


 無造作に渡された物は……、やたらと重く、黒光りをした鉄塊だった。


「冗談だろう……」


 それは、拳銃だった。


 鳴海はそれを一瞥して、


「ああ、悪い。間違えた。それは私のだ」


 眞己の手から拳銃をひったくると、代わりにやたらと小さく、軽い、プラスチック製の拳銃を渡された。どうやらオモチャのようだ。

 どこか、ほっとして手に持ったモデルガンとしか思えないものをいじくった。


「へー、よくできてるな」


「おい、それ本物だから銃口を覗き込むのはやめろ」


 その一言に、眞己は固まった。


「え、だってこれ軽い……」


「ああ、そうだろう。プラスティックガンとも呼ばれるぐらいだからな。名称はグロック26カスタム。重量は480グラム。弾薬を込めても総重量が900グラムしかないから、いつでもどこでも持っていられるだろう。こんな小さなナリだが、九ミリ拳銃なんだぞ」


「……これでオレにどうしろと?」


「燐の敵が現れたら遠慮なく撃ち殺してくれ」


 本気かコイツ? いや間違いなく本気なんだろうが。


「もちろん、死体はこちらで処理させるから何の問題もないぞ」


 いや、問題ありすぎだから。だが、それは声にならず、ただ手に持った銃から視線をはずせなかった。

 だから、この人は苦手なのだ。


 そこにノックが響き渡った。 


「鳴海姉さん。いる?」


 そう言って保健室に入ってきたのは、鳴海に酷似した美貌の主──リンだった。


「あれ、眞己もいるの?」


 リンがここで眞己の持つ拳銃に目を移した。


「へえ、イイものもらったね」


「ああ、これで邪魔者をバンバン撃ち殺してくれるそうだ」


「へぇ、頼もしいね。でも銃なんか撃ったことないのでしょう? ちゃんと扱えるの?」


「心配ない。これから毎晩、射撃練習させるからな」


「ちょっと待てェ──ッッ!」


 ただでさえコンビニの夜勤に加え、リンを護るための各種格闘術を無理やり叩き込まれているのに、これ以上睡眠時間を削られたら死んでしまう。

 断固として拒否する。


「ほう、断るつもりか?」


「へえ、そうなのかい、眞己?」


 二人はよく似た獰猛な笑みを浮かべて眞己を見上げた。


 それに眞己は、断固として──


「そんなことはない、よな?」


「うん、ボクたちの期待を裏切るなんて、そんな馬鹿なことをするはずがない、よね?」


 ──拒否できるはずもなく、力なく頷くしかできなかった。


 だから、苦手なのだ──このひとたちは。

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