2 - ありふれた悲劇のなかで
「この花はゼラニウム。こっちのカラフルなのはパンジー」
「これ全部、パンジー?」
「そう。全部パンジー。たくさんの色があるんですよ」
「へぇ、すごい」
ヒナタは車椅子でそれほど広くない店内を器用に進み、あちこちを指差してはその先にある花を僕に紹介する。僕は彼女が教えてくれる花の名前を繰り返したりしながら、その色とりどりの光景に酔いしれる。
「花にはね、それぞれ花言葉っていうのがあってですね」
「花言葉?」
「うん。それぞれの花が持っている象徴的な意味みたいなもの。たとえばさっきの赤いゼラニウムは〝君ありて幸福〟。パンジーも色ごとに違う意味があって、黄色は〝慎ましい幸福〟。紫は〝思慮深い〟」
花の名前もそうだが、よくもまあこんなにも次から次へと知識が出てくるものだ。もちろん花屋という職業なのだから当然なのかもしれないけれど、僕は素直に感心していた。
「ヒナタさんは花が好きなんですね」
「うん、大好きです。この子たちは、こんな世界でも一生懸命に花を色づかせるんです。その姿を見てると、わたしも頑張らなきゃって思えます。限られた時間を精いっぱい生きていかなきゃって」
何の気になしに振った話題だったが、真っ直ぐに返ってきたヒナタの言葉に僕は返す言葉を見失ってしまう。
ヒナタは
そう思ったら、僕がこの場にいることがひどく相応しくないように感じられた。帰る口実を探したけれど、上手い言葉が思い浮かばなくて、僕はけっきょく少し強引に話を戻すに留まる。
「あ、そうだ。あの、さっきの、えーっと、マーガレット? あの花の花言葉は?」
「マーガレットは――」
「御免下さーいなーっ!」
突如として振り下ろされた鉈のような、不躾で乱暴な声が入り口から響いた。
店の奥まで進んでいた僕らの位置からは陳列された花が壁になっていて入り口は見えない。だが声だけでひどく嫌な感じがしたことは確かだった。
「店主さーん? どこにいるのかなぁ?」
声は近づいてきていた。僕はヒナタを振り返る。ついさっきまで車椅子の上で楽しそうに花の話をしていた彼女は、青ざめた顔で唇を噛んでいた。
「ヒナタさん……?」
「あー見つけた見つけた! って、お客さんいるなんて珍しいねえ」
彼女を気遣おうとした僕の声は、すぐ背後に姿を見せた男の声にかき消された。
訪問者は三人の男たちだった。一人は髪を剃り上げ、耳にやたらとピアスをぶら下げた男。もう一人は根元の黒くなった金髪を伸ばしている眉毛のない男。そして声の主である、赤い髪を逆立てて色の薄いサングラスをかけた大柄の男。
彼らが堅気でないことは一目瞭然。ヒナタとは互いに見知った間柄のようだったが、穏やかに花を愛でる彼女とこの男たちとの接点をこじつけるための説明は、僕には思いつかなかった。
分かるのは、ヒナタが怯えているということ。僕の身体はほとんど反射的に動いていた。
「何だ、お宅。ちょっと退いてもらえるかなぁ?」
赤髪の男が前に立ち塞がった僕を見下ろす。僕は真っ直ぐに男を見上げ、その進路に立ち続ける。ここを退いてはいけない。僕の直感がそう告げていた。
「ンだ、てめえゴラァッ!」
「舐めてんのか、ガキャァッ!」
両脇にいたピアス男とロン毛男が僕に凄む。それでも僕は彼らの前から一歩たりとも動かなかった。
「何なの、坊や。もしかしてその女に惚れてんのー?」
「ここは、花を見る場所ですよ」
「お宅に用はないんだわ。とりま、部外者はすっこんでようか?」
刹那、僕の下っ腹ににわかな衝撃。頑なに立ち塞がっていた僕は簡単に吹き飛び、花の陳列してある棚へとダイブする。棚が崩れ、床に落ちた花瓶が割れる。赤髪の男が床に落ちた花を踏み躙り、ヒナタの悲鳴が遅れて響く。
「気に食わねえなぁー。ったく、筋が通んねえんだよ」
よろよろと立ち上がった僕の鼻っ柱を男の拳が殴りつけた。僕はまた倒れ込み、たくさんの花を巻き込みながら床を転がった。
「威勢よく邪魔してきた割りに、骨がねえなー。ほら、反撃くらいしてみろよ」
僕は髪を引っ張られ、顔面を壊れた棚へと叩きつけられる。瞼の上が切れ、棚の折れた部分が右の頬を深く抉った。
痛くないと言えば、それはもちろん嘘だ。血塗れの顔は焼けるように痛んだし、蹴り上げられた腹もじくじくと異常を訴えていた。だがこの程度の衝撃で僕の意識や戦意を挫くことはできない。
「店の中では止めてください……」
「何それ? 指図してんの? え?」
赤髪の男が僕に詰め寄る。のしかかるように威圧的な微笑に僕は思わず後退る。しかし両脇をピアス男とロン毛男に掴まれる。
「ちゃんと抑えとけよ、お前ら」
赤髪の男が拳を振るった。鼻梁が折れ、視界に星が散る。続けて拳が放たれ、今度は僕の鳩尾に減り込む。僕が殴られるたび、ヒナタが悲鳴を上げて泣き叫んだ。
「かっこつけちゃうからこんな目に遭うんだぜぇー? ――オラッ」
「がふっ……」
喘いで下がった頭を赤髪の男のフックが打ち据える。折れた歯が口から飛び出して滅茶苦茶に破壊された棚の残骸へと消えていく。
結果から言って、僕はいくら殴られても退かなかった。真っ直ぐな視線を赤髪の男へと向け、言葉を発することも暴力に頼ることもせず、男を挑発し続けた。当然男たちは僕を何度も殴り、殺すと脅し、罵詈雑言を浴びせ続けた。店のなかは既に滅茶苦茶で、ヒナタは車椅子の上で泣きじゃくりながら、頭を抱えて震えていた。
やがて殴り疲れたのか、ピアス男とロン毛男に拘束されていた僕は棚の残骸へと突き飛ばされた。赤く霞む視線を向けると、血に濡れた赤毛の男の拳は青く腫れ上がっていた。
男たちは最後に僕とヒナタを怒鳴りつけたあと、「また来る」と吐き捨てて帰っていった。
僕は効いていない素振りで耐え続けていたけれど、実際は立っているのもやっとだった。花と棚の残骸の上に四肢を投げ出した。
嵐でも通り過ぎたような店内には、ヒナタのすすり泣く声が響いている。彼女は車椅子から身を投げて僕のところまで這ってくると、覆い被さるようにして血塗れの僕を抱きしめた。
「怪我、してないですか……?」
「ごめんなさいっ。わたし、……わたしっ」
僕の問いかけに、ヒナタはそう何度も繰り返す。事情は知らなかったけれど、少なくとも彼女は悪いことなんて何もしていない。悪いのはあの男どもで、僕は勝手に立ち塞がって巻き込まれただけ。それなのにどうしていいか分からなくて、僕は胸の上で泣きじゃくるヒナタに慰めの言葉の一つすらも言ってやることができなかった。
◇
「痛っ……」
「ご、ごめんなさいっ」
消毒液が傷口に滲みた。思わず呻く僕にヒナタは猛烈に頭を下げる。「そんなつもりじゃなくって」と慌てる僕に、やがてヒナタは堪え切れなくなった笑みを溢す。僕は安堵から、深く息を吐いた。
「ようやく笑ってくれました……」
僕が思わずそう言うと、ヒナタは黙り込んでしまう。
何か変なことを言ってしまったのだろうか。頬についた血を綺麗に拭ってくれるヒナタを盗み見ながら、そんなことを思って反省する。そのせいで勝手になんとなく気まずくなって、僕は店内をぐるりと見回す。
店内はまだ散らかったまま。壊れた棚が転がり、鉢植えの土は床にぶちまけられて同じく床にこぼれた水と混ざっている。茎が折れたり、花弁を踏み躙られた花があちこちに落ちていて、見ているだけで泣きそうになる。
「拳闘士さん、なんですね」
僕の腕に触れていたヒナタが言う。僕はほとんど反射的に腕を引き、気まずさを誤魔化すように笑った。
「昔の話です。今はもう違います」
僕の両腕――肩から先には機械の腕がついている。もちろん今ついているのは拳闘士の腕についている競技用義腕ではなく、単なる生活補助を目的とした医療用義腕だ。見た目も出力もまるで違うけれど、競技に直接関わる人間でなければそんなものは大した差ではないのだろう。戦時でもない今の時代に両腕が義腕というのは拳闘士の証拠と言っても差し支えない。
僕は拳闘士だった。〈
だけど僕はもうリングには立てない。存在意義を失った僕の人生は、ただ惰性で続いている。
「拳闘はもう辞めたんです」
そう呟いた僕の声音は僕が思っていたよりもずっと冷たく鋭いものだった。だからだろう。触れてはいけない何かだと思ったのか、ヒナタもそれ以上は何も聞いてこなかった。
治療を終えた彼女は散らかった地面をスカートで掃除しながら這って、車椅子に座り直す。一度店の奥へと下がったヒナタは、しばらくして竹箒と塵取りを抱えて戻ってくる。目元がほんの少し擦ったように赤いのは、たぶん僕の勘違いではない。
あれだけの騒ぎにも関わらず誰も出てこないということは、この花屋はヒナタが一人で切り盛りしている店ということだ。足が不自由かつ灰貌症を患い、さらに女性である彼女がこのめちゃくちゃに破壊された店を片付け終え、営業を再開するまでにどれだけの労力と時間がかかるのだろう。僕はそんなことを考えた。
「本当にご迷惑おかけしました。でも見ての通り、お店は閑古鳥が鳴いているし、借りたお金さえ払う余裕もなくて。なんと言ってお詫びをすればいいか……」
ヒナタは床の土や鉢の破片を掃きながら自嘲的に笑った。ついさっきまで気高く可憐な空気をまとって楽しそうに花の話をしていた彼女の笑顔はどこにもなかった。
「借金、ですか」
「ええ。お恥ずかしい話なんですけどね。病気の母がいたんです。兄と一緒に治療費を稼いでたんですけど、兄は事故で死んでしまって。どうしようもなくなった私は金貸しを頼ったんです。でも助けられませんでした。お医者様と金貸しが裏で繋がっていたんです。私はお医者様を信じて高い治療費を払い、だけど母は死にました。残ったのは膨らんだ借金だけ」
彼女はもう一度自嘲的に笑う。髪に隠れた横顔は、今にも砕けてしまいそうなほどの悲痛さを湛えている。
それは言ってしまえばありふれた悲劇だ。圏外に法はない。いかに狡猾に、そして悪辣に立ち回れるかを誰もが考え、相手を出し抜いて生きている。医者に限らず何らかの業者や専門家が裏で金貸しと繋がっていて客を斡旋する。借りた金は瞬く間に倍以上に膨れ上がり、残るのは到底返せる見込みのない借金地獄。そんな悲劇は陳腐と呼んでしまえるほどに、この圏外に溢れている。それを分かっているからこそ、ヒナタも自らを嘲るような乾いた笑みを浮かべたのだろう。
「よくある話です」
「ええ、よくある話ですよね」
愚にもつかない慰めだった。僕はこれ以上口を開いて気まずさを助長するのを避けるため、ゆっくりと立ち上がる。身体はまだ痛んだが、動けないほどではない。
床に膝を突き、散らばった土を掻き集める。折れたりしてだめになってしまった花を弔うように床に並べた。
「あの、アクタガワさん。何を……」
「手伝います。壊したのは僕だから」
冗談めかして言ってみた。僕にしてはユーモアに溢れたブラックジョークのはずだったが、あまり面白くなかったのだろう。ヒナタは全然笑わなかった。
「……ありがとう、ございます」
静まり返った店内に、彼女の鼻を啜る音が響く。
◇
結局ヒナタとともに店の掃除に勤しんだ僕が寝床に帰り着いたのは夜中だった。ひどく殴られたし、明日も朝から仕事だったが不思議と疲労感はない。
部屋はもともとラブホテルだったようで、部屋にはダブルサイズのベッドと脚の折れた机。そしてびりびりに破れているソファなどが置いてある。ちなみに僕がいるのは二階で、この階と一つ上の三階を含め、何人かの住人が互いに関わることなく暮らしている。
僕は荷物を下ろし、帰り道で拾った空き瓶に水を入れる。手には一輪のマーガレットが握られていた。なんとか明日からの営業に差し支えない程度まで店内を復旧させたあと、お礼にとヒナタがくれたものだった。もちろん一度は断ったけれど、彼女の気持ちを汲んで僕はそれを受け取った。
空き瓶にマーガレットを挿す。机は傾いているので枕元の棚の上に置いた。僕はマットレスもシーツもない粗末なベッドに横になりながら一輪のマーガレットに見入る。
その白く清らかな花は、埃っぽくて寂れた部屋にはあまりに眩しかった。きっとこの不釣り合いな光は、僕という影をより色濃く際立たせる。そんなことを考えて、僕は静かに眠りへと落ちていった。
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