3 - 光は淡くて、希望は儚くて

 次の日も僕は仕事が終わった後、ちゃんと営業できているか確認するという理由をつけてヒナタの元へと立ち寄った。

 果たして花屋は無事に店を開けていた。とは言え、陳列される花の数はかなり寂しいものになっていたし、外から覗き込める限り店内に客はいない。

 無事営業できているか。昨日の男たちがまたやって来てはいないか。それを確認するだけのつもり。そう思って崩れた壁の陰から店の様子を伺っていると、不意に外へと視線を向けたヒナタとガラス越しに目が合った。僕は小さく会釈をし、彼女はそんな僕を店内へと招き入れてくれた。


「差し上げたマーガレットは元気にしてますか? ……って昨日の今日で元気も何もないですね」


 ヒナタはそう言って笑った。たぶん関係のない話をしたのは、僕が足を運んだ理由をなんとなく察しているからだろう。昨日出会ったばかりだが、ヒナタはそういう細やかな気遣いのできる女性だと僕は知っていた。


「一応、水を入れた瓶に挿してます。けど、花を飾るなんて初めてなので」

「それで大丈夫ですよ。花のある生活はどうです?」

「正直、まだ一晩だから何とも。でもたった一輪だけでも、景色が華やいだように思えます」


 僕が言うとヒナタは満足そうに微笑む。それから「ちょっと待っててください」と言って店の奥へと下がっていく。店内には客の僕だけが取り残され、もし万が一お客さんが来たらどうしたらいいのだろうと不安に思うなどしたけれど杞憂だった。

 しばらくして、ヒナタが膝の上に盆を乗せて戻ってくる。盆の上には紅茶の入った湯飲みが二つ置いてある。


「この通りお店はいつも暇なので、よかったらわたしのお話相手になってください」


 彼女はいたずらっぽく笑う。そういう表情もするんだな、と僕は思った。


   ◇


 僕はヒナタのその一言をきっかけに、暇さえあれば花屋に通い詰めた。

 相変わらず花を買うような金はなかったが、僕が訊ねるとヒナタは快く僕を招き入れ、味の薄い紅茶を振る舞ってくれた。

 僕らが話す内容は取り留めのないものばかり。

 たとえばお店にネズミがやって来た話。ヒナタが「いらっしゃいませ」と声を掛けると恥ずかしそうに「ちゅう」と鳴いて壁と壁の隙間に消えてしまった小さなお客さん。嬉しそうに話すヒナタを見ながら、僕はきっと花なんてなくても彼女の見る世界は小さな幸せと彩りに溢れているんだろうなと思った。

 たとえば仕事の途中、指輪を拾った話。銀製のようだったけれど、経年劣化と酸化によって真っ黒になったそれをヒナタは欲しいと言った。どの指にはめてもぶかぶかだったけれど、僕は綺麗に磨いてチェーンを通したら貰ったマーガレットのお返しにプレゼントすることを約束した。

 もちろん花の話もした。ヒナタは店に並んでいない花についても博識で、絵に描いたりしながら楽しそうに僕にうんちくを聞かせた。おかげで僕はだいぶ花について詳しくなったと思う。

 それと、新しく棚を作ったりもした。トンカチで自分の指を叩いてしまって悶絶している僕を、ヒナタは顔を真っ青にして治療した。幸い大したことはなかったので、消毒液を指に塗ってガーゼを当てたあと二人で少し笑った。

 僕がヒナタの元を訪れるのは借金取りの男たちへの牽制の意味もあったけれど、彼らは姿を現さなかった。きっと他にも金を貸した顧客がいるのだろう。取れる見込みが薄く、遠くへ逃げることもできないヒナタへの取り立てはあまり優先順位が高くないのかもしれない。

 毎日ほんの少しずつ。僕らは時間を共にした。少なくとも僕にとって、それはかけがえのない幸せな時間だった。そして僕がそう思っているほんの一部でも、同じ気持ちをヒナタが抱いてくれていたらどれだけ幸せだろうと考えた。

 だけど分かっていた。この圏外アンフェイスで、幸せは長く続かない。朽ち果てていく惰性の時間の先にあるのは哀しみに満ちた終わりだと決まっている。

 その証拠に、ヒナタの肌に浮く灰貌症の症状は日に日にその面積を増していた。それでも打つ手立てはない。圏外アンフェイスでは灰貌症を治す術がないのだ。だがどれほど病魔に侵されようとも気丈に笑ってみせる彼女に、僕はどんな言葉を掛けたらいいのか分からなかった。



 そうして一月余りの時間が流れた。


「こんにちは、ヒナタ」

「あら、こんにちは。アクタガワくん」


 入り口から店に入るとカウンターの奥で車椅子に腰かけているヒナタがいた。身体を預けていた背もたれからゆっくりと上体を起こし、ヒナタは僕へと笑顔を向ける。

 顔では左頬だけだった灰貌症の症状は既に顔の下半分全てを灰色へと変色させていた。唇は罅割れ、表情を動かすたびに硬化した皮膚表面に細かな亀裂が走る。既に体内の変化も始まっているのだろう。乾いた唇を舐めた舌も、ほとんど灰色に変色している。


「体調はどう?」


 僕はヒナタに訊ねる。最近は体調が優れず、あまり満足に話せないことも増えた。そんなとき、何か気の利いた話をしてやれれば一番なのだろうけれど、僕にはそんな細やかなことすらしてやることができなかった。


「今日はまあまあかな」


 彼女はぎこちなく言う。無理に作った笑顔が胸にちくりと刺さる。僕は内心の動揺を見せないように気をつけながら、彼女の隣りの椅子に腰を下ろした。


「アクタガワくんは元気そう」

「ちょっといいことがあったんだ」


 僕が言うと、ヒナタは「いいこと?」と聞いて目を輝かせた。灰貌症を患っているせいもあって満足に外を出歩けない彼女にとって、僕との会話が外の世界との唯一の接点だった。だからこうして、僕が毎日のように訪れては話す取るに足らない日常を楽しみにしてくれている。それだけで、僕は僕の灰色一色の毎日が何か価値のあるものに成り代わったような気分になるのだ。


「ヒナタ、少し目閉じてて」

「なになにー?」


 言われた通りに彼女が目を閉じたことを確認し、僕はリュックから掌に乗る程度の大きさの木箱を取り出す。中に収められていたのはいつの日か見つけた、古びたガーネットが嵌め込まれた指輪。僕はヒナタの灰化した左手を取り、それを薬指へと通す。


「これ……。でもサイズ、ぴったりになってる」


 目を開けたヒナタがゆっくりと左手を掲げる。ガーネットの赤ときれいに磨かれた指輪の銀が光を反射した。


「職場に金属の溶接ができる人がいて、頼み込んで教えてもらったんだ。前はチェーン通してネックレスにって言ってたけど、やっぱり指輪は指に嵌めたほうがいいかなって思って」

「じゃあこれアクタガワくんがやったの?」

「うん。一応ね。うまくできたか不安だったけど、サイズぴったりみたいでよかった」

「すごく嬉しい。宝物にする」


 ヒナタは口元に小さな笑みを湛え、左手を抱くようにして両の掌を胸に添える。その嬉しそうな表情に、僕はなんだか泣きたい気分になった。

 じっと見ていたのがバレたのだろう。ヒナタはもう一度微笑むと膝の上で握られていた僕の手を解き、指輪の煌めく左手をそっと添える。僕はごく自然に、彼女の手を握り返していた。

 指輪をあげたことに深い意味なんてない。けれど彼女がこうまで喜んでくれて、僕は生まれて初めて誰か他者と共有できる幸せを感じていた。

 リングでは常に孤独だった。二四フィートのリングに立つのは自分と相手だけ。セコンドやトレーナーは後ろで見ていてくれるかもしれないが、やはり拳闘士はたった一人で拳を構えるのだ。

 それに、たとえ勝利したとして、それを噛み締めるような幸福感はなかった。あるのは安堵。まだ自分が存在を許されるのだという安心感。そして次も相手を倒さなければならないという恐怖と不安。

 だから僕はずっと一人だった。頑なに拳を握り続けていた。でも今は握った手のなかにヒナタの存在がある。もしもこの気持ちに名前をつけるなら、相応しい言葉は一つしかなかった。


「ヒナタ」

「どうしたの、アクタガワくん」


 ヒナタが聞き返す。心臓が早鐘を打った。見えないけれど、たぶん頬はどんな花より鮮やかに赤くなっていただろう。僕は息を深く吸い込んだ。


「僕は君が好きだ」


 全身の毛穴から沸騰した血が噴き出してしまいそうだった。喉が異様に乾いた気がして、僕は唾を何度も飲んだ。恐る恐る伺ったヒナタは左薬指を触りながら、困ったように笑う。


「私――――」


 その先の言葉は勢いよく開けられた店の扉の音に掻き消された。

 僕はすぐさま立ち上がる。ヒナタを庇うようにして入り口のほうへと視線を鋭くする。気配だけで分かった。あれだけ殴られたのだから忘れるはずもない。


「店主さん、どうもぉー」


 花に囲まれた通路を進んでくるのは赤髪の男。その後ろにはピアス男とロン毛男も粘着質な睨みを利かせながら付き従っている。


「それと、坊やもこんにちは。懲りずにご苦労様だねぇ、まったく」

「何しに来た?」


 にわかに殺気をまとう僕に、赤髪の男は不用意に詰め寄ってくる。


「何ってお仕事に決まってんでしょ。まあ今日はお金の取り立てじゃないんだけど」

「花を買いに来たわけじゃないんだろ?」

「当たり前でしょ。花なんて、腹も膨れねえし、敵も殺せねえ。んなもんに何の価値があるって言うのよ?」


 赤髪の男が明らかに挑発するような口調で言う。僕は視線をより鋭くして男を見上げた。

 ここで歯向かえば、少なくとも一発は赤髪の男にパンチを見舞うことくらいできるだろう。僕は曲がりなりにも拳闘士だった。つけているのが医療用義腕だとしても、少なくないダメージを与えることができるはずだ。

 だがそれでは店を守ることはできない。もし僕が実力行使に出れば、赤髪の男の後ろで店内を見回しているピアス男とロン毛男が店を破壊するか、すぐさま僕に暴行を加えるだろう。一対一ならば自信はあるが、ヒナタや店を庇いながら自分よりも体格の優れた相手を複数相手にして戦って勝てる見込みは薄い。


「ま、探す手間が省けてラッキーよ。まさか本当に死にぞこないの借金女に入れあげてるとはなぁ。今日はお前に用があって出向いてやったんだよ」

「……僕に?」

「そうだ。うちのアニキがお前さんに会いたがってる。大人しく従ってもらおうか」

「アクタガワくん……」


 僕の後ろでヒナタが声を掠れさせる。僕は男の読めず、正直かなり動揺していたけれど、彼女の手前それを押し殺す。


「ヒナタ、大丈夫」


 僕はそれだけ言った。赤髪の男の背後では舎弟の二人が直したばかりの店内を舐め回すように見ている。もちろん花を愛でているわけではない。その視線にはありったけの害意が滲んでいる。僕が断れば店がどうなるかは想像するまでもないことだった。


「……わかった。ついていくよ」

「物分かりがよくて助かるね。お互い、無駄な力は使わないに越したことはないよな」

「一つ約束してくれ。店には手を出さないでほしい」

「それはこれからのお前の態度次第ってことになるだろうなぁ。ま、従順であれば余計なことはしないから安心していいってことだ」


 赤髪の男はにっと白い歯を剥き、僕の肩を軽く叩く。

 心臓が早鐘を打つ。さっきヒナタと見つめ合ったときとはまるで違う、不愉快で不吉な鼓動だった。僕の肩には赤髪の男の太い腕が回され、その足はゆっくりと外へ向かっていく。


「アクタガワく――けほっ、けほっ」


 僕らを追いかけようとしたヒナタが車椅子の上で咽返る。僕はほとんど反射的に戻ろうとしたが、肩を固める赤髪の男の腕がそれを阻む。


「大丈夫だから! ヒナタは何も心配しなくていいから!」

「お熱いねぇ、お二人さん。若いってのは愉快なもんだ」


 ヒナタに向けて咄嗟に叫んだ僕の声は、赤髪の男が茶化すように言った言葉と舎弟二人の下品な笑い声に絡め取られていく

 胸を抑える左手をぎゅっと握りしめたヒナタが何かを言おうと懸命に息を吸った瞬間、扉が勢いよく閉められた。ヒナタへ伸ばした僕の手は風に舞う黒灰ダストを虚しく掴んだだけだった。

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