鋼の拳、硝子の花束

やらずの

1 - 灰降る街で

 シューズがリングの上を擦る音。獣のような荒い二つの息遣い。闘争心に突き動かされる義腕の唸るような駆動音――。

 ライトが照らし出すのは対戦相手。頭の上で束ねたドレッドヘアに、頭部装備ヘッドギアから覗く両の頬には刃のような刺青。鍛え上げられた彫刻のような肉体を流れる汗は光を受けてぬらぬらと煌めく。肩から先に埋め込まれた機械の両腕は一分の隙さえなく顔の前でコンパクトに構えられ、一瞬に満たない好機を虎視眈々と狙う。拳にはめられたグローブは、こめかみから流れる血と同じ鮮やかな赤色だ。

 視界が霞む。暴力的に脈打つ心臓は肋骨を軋ませる。しかし脚を止めるわけにはいかない。気を緩めるわけにはいかない。自分の存在を証明するために、この命にも価値があると示すために、僕は前へ進まなければならない。この一辺二四フィートのリングに立ち続けなければならない。

機鋼拳闘アイアンフィスト〉――それは人機一体を称する格闘技。

 ルールはかつての時代のボクシングとほぼ同じ。違うのは競技者の両腕が、小型化された高出力モーターを内蔵する競技用の義腕に置き換えられているということだ。

 たった一辺二四フィートのリングのなかで、僕は相手に対峙する。既に最終ラウンド。勝負が決する瞬間は近かった。

 覆い被さるように響いていた歓声と野次が遠退いて、静寂が訪れた。お互いの息遣いだけが全てだった。

 相手の僧帽筋が収縮するのが分かった。左のジャブが鋭く放たれ、僕はガードを上げる。鋼と鋼の打ち合う音が響くと同時、相手は右の拳を振り絞っている。ガードが上がったところへのボディブロー。手本のように的確な一撃であり、同時に相手の最も得意とするかたちだった。

 だが僕には全てが見えていた。

 スウェイで打点をずらしたジャブを受け流しつつ、僕は相手の右拳に当たりにいくように斜め左前へと小さく踏み込む。無防備になった僕のボディへ渾身のブローが叩き込まれる。肋骨が悲鳴を上げるが、力が乗り切る前にインパクトを迎えた打撃は必殺に至らない。僕は左脚を軸にして大きく右に傾けた身体を捻る。相手に背中を晒しつつ折り畳んでいた右腕を振り抜いた。

 肉を切らせて骨を断つ――。

 試合規約レギュレーションぎりぎり。ほとんど捨て身で放つ、カウンターの裏拳だった。

 自重の全てを乗せ、捻転によって勢いを増した一撃が斜め三〇度の角度で相手の頬骨を穿つ。振り抜かれる一撃に押し倒されるようにして相手がリングに崩れ落ちる。

 込めた力に耐えかねて僕の義腕の人工筋肉が引き千切れ、義腕の内側から蒸気が漏れ出す。神経系に不具合の出た右腕は動かなくなってだらりと垂れ下がり、僕は前のめりによろめいてリングロープに身体を預けた。

 遠退いていた音が戻ってくる。視界の端にリングに駆け上ってくる両陣営のセコンドが見えて僕は自分の勝利を確信する。やや遅れて、試合終了のゴングが響き渡る。

 僕は証明したのだ。まだ生きる意味がある。このリングに立ち続けている。

 ロープに押し返された僕はリングに尻もちを突く。動かし続けた脚はひくひくと痙攣していた。

 僕はリングに寝転んだ。見上げれば、倒れたままの対戦相手に駆け寄る医療スタッフの姿が見えた。

 ――え?

 僕は呆然とする。担架に乗せられた対戦相手は、首が一八〇度近く曲がったままだった。闘争心どころか光を失った瞳と目が合った。

 氷のように冷たい手に、心臓を鷲掴みにされた気分になった。

 歓声だと思っていた声は悲鳴だった。会場は騒然とし、対戦相手を乗せた担架は速やかに運ばれていく。相手のセコンドが僕に何かを怒鳴っていたが、何を言っているのか、判然としない僕の頭は理解することができなかった。

 間もなく僕は自陣のトレーナーたちに抱き起され、引き摺られるようにリングから下ろされる。トレーナーが何か言いながら僕の目を覗き込んでいた。それなのに、僕の目には動かなくなった対戦相手の姿が焼き付いていた。

 握ったはずの拳から何かがこぼれ、唯一の居場所だった光が遠退いていく。

 この試合を最後に、僕はリングに上がれなくなった――。


   ◇


「お疲れ様です」


 一足先に着替えを終えた僕は更衣室を後にする。ダンボールや廃材が積まれた狭く埃っぽい廊下を進み、すれ違った同僚にも同じ挨拶をする。返事の代わりに舌打ちが向けられる。別に気にはならなかった。

 途中、トイレに寄った。貯め込んだ雨水で手を洗いながら咳き込むと黒い痰が出た。屋外での清掃作業のせいだった。

 コートのポケットから取り出した安物の防塵マスクで口を覆って外に出る。まだ昼過ぎだというのに、街に活気や人の息遣いはない。代わりに突き刺さるように冷たい灰色の風が吹き荒んでいた。見上げる空は黒く、今にも落ちてきそうだ。そして軋んだ天井から塵がこぼれるように、空からは〈黒灰ダスト〉が降り続いている。


 その昔、第三次世界大戦サード・ウォーというのがあったらしい。

 互いの懐に核兵器を忍ばせた列強同士の戦争は世界中を火の海へと変えた。街を廃墟に変え、森や草原を焦土とし、海を干上がらせたのだ。文明は荒廃し、文化は容易く捻り潰された。本来は外交手段の一つでしかないはずの戦争は、いつしか憎悪の連鎖に取り込まれて歯止めが利かなくなった。

 国家という概念そのものが崩壊し、汚染された大地は人類から生存圏のことごとくを奪った。空は黒く塗りつぶされ、終戦から半世紀経った今も人の身体を蝕む〈黒灰ダスト〉が降っている。

 生まれたときから世界はこうだった。だからこの空を見ても思うことは少ない。外の空気は直接吸い込んではいけない毒で、親の顔は知らなくて、この終わりかけの世界で這い上がっていける望みなんてものは欠片もない。

 見上げた空に、反り立つ巨大な壁が見えた。

 あれこそ人類に残された唯一の生存圏――〈天傘領域アンブレラ〉だ。

 かつて敵と味方ではっきりと分けられて終わりへ向けてひた走った世界は、今は貧富によって明確に二分されている。

天傘領域アンブレラ〉とは人間が人間として生きることを許された楽園エデン。そしてそれ以外の全ての場所は単純に〝圏外アンフェイス〟と呼ばれる。

天傘領域アンブレラ〉では、ドーム状に街を覆う天傘が〈黒灰ダスト〉の影響から人々を守ってくれる。綺麗な服を着て、温かい食事を摂り、柔らかな毛布に包まって眠ることができるらしい。もちろん疑似的な青空が再現されているという〈天傘領域アンブレラ〉では、防塵マスクをつけて降りしきる〈黒灰ダスト〉に怯える必要もない。

 僕を含め、圏外アンフェイスに暮らす人間ならば誰だって一度は憧れる。だけどそれは夢よりもずっと儚い願望でしかない。

 あそこに住めるのは法外に高い税を収めることのできる富裕層か、財力とは別の何らかの理由で特別に住むことを許された準市民だけ。青券あおけんと呼ばれる就労ビザがあれば圏外アンフェイスに住む人間も出入りすることは可能だったが、やっぱりそれすらもごく少数の選ばれた人間にしか手に入れることはできない。

 人として生きるためには〈天傘領域アンブレラ〉に住む他にない。だけどそれは叶わない。

 それがこの世界の揺るぎないルールらしかった。


 僕はリュックの肩紐を掴んで背を丸め、風に圧されるままよろめくように家路に着く。どこからか連れて来られた新聞紙が宙を舞い、路上で(たぶん)死んでいる子供の顔に張りついた。

 子供の身体の大部分はまるで燃え尽きた木炭みたいに灰色。〈黒灰ダスト〉による中毒死の典型だった。

 路上で誰かが野垂れ死んでいることは珍しくもない。だけど死体を目の当たりにするたび、僕は心臓を握り潰されたような嫌な気分になる。

 歩調を速め、人気のない路地を進んだ。いつもの帰り道は老朽化した建物の崩落で通れなくなっていた。僕は仕方なく遠回りをする。罅割れた隙間から名前の分からない草や蔦を生やすアスファルトを踏み越えていく。

 街の様子はどこもそう変わらない。建物はどれも崩れかけていて、人の姿はほとんどない。目印になるようなものがないので、慣れない道を歩くときは迷わないように気をつけなければならなかった。

 やがて足早に進む僕の視界の端っこにが止まった。僕は足を止めてその色に目を凝らす。

 それは、灰色に染まり切った終わりかけの世界に相応しくない小さな花屋だった。

 きっと死体を――しかも子供の死体を目の当たりにするなどしてしまったせいで気分が落ち込んでいたからだろう。僕の足は光に群がる蛾のように、自然とその花屋へと向かった。

 店に近づくと、ガラス越しに赤、黄、白、紫――様々な色の花が僕を出迎えてくれる。僕は扉を開けて店のなかへと足を踏み入れる。

 僕に花のことなど分からない。だけど空に日差しはなく、大地も汚染されきったこの世界で、花を育てるのがどれだけ大変なことかは容易に想像ができた。それは奇跡に近い。

 もちろんそんな奇跡の結晶だ。値段は高い。しがない清掃員である僕の給料ではとうてい買えるような代物ではない。いや、この圏外の住人に花を買えるような人間がいるのだろうか。そもそも今日の食事さえ不確かな毎日をすごす圏外の住人に花を愛でるような余裕があるのかも分からなかった。


「それ、マーガレットって言うんですよ」


 花を見ていたら急に誰かの声がした。僕は声の方向を辿って店の奥へと視線を投げる。左右を花に囲まれた通路の真ん中に、女性がいた。


「え、あ……」


 急に話しかけられたせいもあって僕が答えに困っていると、その女性は小さく笑った。それから彼女は両手で車輪を動かして僕のすぐそばへと近寄ってくる。彼女は車椅子に座っていた。


「このお花の名前です。マーガレット。綺麗ですよね」

「はい、えっと、綺麗です」

「マーガレットに目をつけるなんて、すごく素敵です」

「はぁ、どうも」


 言葉を交わし、僕は彼女の顔を覗く。肩にかかる亜麻色の髪の隙間から灰色に変色した首筋と頬が見えた。

 その女性は灰貌症かいぼうしょうだった。〈黒灰ダスト〉による中毒症状の一つ。体内に蓄積された〈黒灰ダスト〉が細胞を緩やかに炭化させていく病だ。投薬と外気の隔絶によって〈天傘領域アンブレラ〉にならば治すことも訳はない病だが、圏外アンフェイスでの治療手段はない。だから僕らにとっては不治の病だった。

 彼女は僕の視線に気づき、髪を手で梳かす仕草で変色した肌を隠す。僕は慌てて視線をマーガレットへと戻した。


「ごめんなさいっ」

「いえ、こちらこそごめんなさい。嫌なものをお見せしちゃいました」


 その女性は申し訳なさそうにはにかんだ。

 灰貌症による灰色の皮膚が連想させるのは近い将来に約束された死。そしてそれはこの圏外アンフェイスにおいて誰にでも平等に降りかかる悲劇だ。もちろん感染する病気ではないけれど、明日は我が身であるからこそ、灰貌症の発症者は忌避される。


「全然、そんなこと、ないです」


 それは本心だった。

 たしかに彼女は灰貌症かもしれない。近い将来、死んでしまうことが決まっているかもしれない。だけど花に囲まれて微笑む彼女の姿が「嫌なもの」であるはずがない。


「すごく、綺麗です」


 もちろん彼女のことだった。だけど彼女は嬉しそうに微笑んで、マーガレットを一本手に取った。


「そうですね。とても綺麗です。マーガレットはわたしも好きな花なんです。よかったら一本差し上げましょうか?」

「い、いえ、頂けないです。そんな高価なもの……」

「そんな気にしなくていいのに。ここで枯れるのを待つより、誰かに愛でてもらったほうがお花も喜ぶと思うので。ほら、お兄さんに似合います」


 彼女はマーガレットを僕の胸に翳して言った。楽しそうな彼女に笑顔に、僕は胸の奥がにわかに熱を持っていくのを感じた。


「そうだ。わたし、ヒナタって言います。お兄さんのお名前は?」

「アクタガワ。僕はアクタガワ」

「アクタガワさん。強そうで、素敵なお名前ですね」


 彼女――ヒナタはそう言ってまた微笑んだ。

 僕の名前が素敵なわけがない。そう思ったけれど僕は口には出さず、自分ができる精一杯のぎこちない笑顔を彼女へと向ける。

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