謙介37ヒロト38

 8月12日の夜、謙介は大翔と宿泊している都内のホテルのレストランに行った。

 コロナのために大翔が帰省しなかったので、会うのは昨年の正月以来のことだった。

 まず就職を祝ってシャンパンで乾杯をし、それから謙介は大翔の就活の様子や近況を聞きながら、しばらく会わないうちに息子がまた一段と成長したなと感じていた。

 

 ヒロトは久しぶりに謙介と話して、意外と話せるものだと思った。

 正直、父親は苦手でしかなかった。仕事ばかりで、あまり家にいなかったし、たまに会うと小言を言われたし、どこかお調子者のところがあって揶揄うようなことも言うし。

 しかし、こうして話してみると、そんなに嫌な感じはしない。自分が大人になったせいかとも思った。

 改めて考えてみれば、決して悪い父親ではなかった。親ガチャという言葉があるが、決してハズレではなく、むしろ当たりであったと思う。母が入院してからは、仕事をしながら自分の世話をしてくれたし、大学に落ちた時も留年した時もきついことは何も言わなかった。父親が苦手だったのはたぶん自分の劣等意識のせいであろう。

 

 酒の勢いもあり、ヒロトは聞きたかったことを言った。

「親父はお母さんにどうやってプロポーズをしたの?」

 今まで聞かれたことのない問いに謙介は思わずむせてしまう。

「えーと、何だったっけ。ずいぶん昔のことだから、覚えていないな」

「ふーん、そんな大事なこと、忘れるんだ」

「いや、忘れている訳ではなく。すぐに出て来

ないだけで。……で、なんでそんなこと聞くんだ?彼女が出来たのか?」

「いや、彼女という訳でなく。付き合ってもいないけど、気になる子がいて……」

「へー、どんな子?」

「この4月にバイト先の量販店に就職してきた子で、22歳かな。性格の優しい、よく気の利く子でね」

「そうか。外見はどんな感じ?」

「外見……背が高くて……」

「芸能人で言ったら誰に似てる?」

「芸能人……」

  そう言われて、ヒロトの頭にすぐに浮かんだのは麻衣であった。しかし、言っても親父には分からないだろう。それで口籠もってしまった。

謙介は中学生みたいなバカなことを聞いてしまったと恥ずかしくなり、取り消そうとしたが、

その時、ヒロトが言った。

「えーと、少し新垣結衣に似てるかな」

 謙介は飲んでいたビールを吹き出しそうになった。

 本当は真維に似ていると言おうとしたのだろう。


「就職したら、告ってみようと思うけど、上手く行くと思う?自信がなくって」

「そうなのか。大丈夫。きっと上手くいく。この数年で大翔は随分成長したよ。見違えるくらいだ。お母さんが生きていたら、きっと喜んだだろう」

「そうかな?親父にそんなこと言われるのは初めてだよ」

 ヒロトは父親に初めて認められたような気がして、嬉しかった。

 

「なあ、親父は俺や姉貴にどうなって貰いたい?」

「そりゃあ、幸せになって欲しいよ」

「それは貧乏でも幸せならいいという意味?」

「いや、貧すれば鈍するという言葉があるとおり、借金に追われる生活ではけっして幸せにはなれない。たまに家族で外食したり、テーマパークに行ったり、旅行したり出来るくらいの経済的な余裕は必要だと思う」

「うーん。そうかあ」

 そう言いながら、以前、多田さんから「リア充になれ」と言われたことを思い出した。


「どうすれば幸せになれるのかな?」

「幸せとは心の問題で、満足感や充実感が大きいということだと思う。だから、何か好きなことをしたり、熱中したり、さらには情熱を注ぐものを見つけたりすることだと思う。

 しかし、激しく愛した物が無くなった時の喪失感は半端ないからね。小さなことに喜びを感じる方がいいのかな?例えば、植物を育てるとか。美味しいものを食べるとか。そういうのは決してなくならないからね。

 そういえば、会社の先輩で、もうリタイアしている人がね、最近オペラを始めて、それが楽しくて幸せだと言っていたなあ」

 そう言いながらも謙介は真維と過ごした日々のことを思い出していた。

 たまにしか会えなくても、メールでしかやり取りがなくても、繋がっていた日々。あんな満ち足りた幸せな日々はもう二度と来ないだろう。


 謙介は以前から一度真維のことを大翔と話してみたかった。それでこの機会に聞いてみた。

「以前、アイドルグループのライブに通っていたみたいだけど、今も通っているのか?」

「いや、昨年の初めに推しが辞めてからはたまにしか通っていない」

「そうか」

ずっとツィートもしていなかったので、あまりライブに行っていないのかと思っていたが、やはりそうだったのか。

「新しい推しというか、別のメンバーのファンにはならないのか?」

「それも少しは考えたけれど、彼女くらいの存在はいなくて。もうあれだけの情熱で応援出来る人はいない」

「そうか。それだけ応援出来て、なんか羨ましいな。……応援している時は、それこそ幸せだっただろう?」

 ヒロトは麻衣と過ごした日々を思い出した。毎週日曜はライブに行って彼女と話した。仲間と夢中で応援し、凄い熱量と一体感でテンションが上がりまくって、楽しくて仕方なかった。

 将来、自分の青春は何だったのかと思いを巡らす時、きっとテンカラのことを思い浮かべるのだろうと思った。


「お父さんも若かったら、きっとはまっていたと思う」

「親父が?意外だな?」

「そんなことないよ。結構ミーハーだし、楽しいこと大好きだし。でも、推しが辞めた時はきついよな」

 そう言われて、 ヒロトは麻衣が突然辞めた時の喪失感と空虚感を思い出した。

「親父もお袋が死んだ時は相当辛かった?」

「そりゃあ、とても悲しかったし、辛かったよ。でも、母さんの時はだいぶ前から覚悟は出来ていたし、半年以上も前から大翔と二人暮らしだったからな。

 当然あるべきものだと思っていたものが、ある日突然なくなる。その方が喪失感ははるかに大きい。心にぽっかりと穴が開いたような気がして、気力も何もかも失せる」

  謙介は真維の死亡の通知を受け取った時のことを思い出していた。あの時は全身から力が抜けて、崩れるように椅子に座って、何時間も身じろぎひとつ出来なかった。

 

 ヒロトも麻衣がいなくなった時のことを思い出していた。あの時、自分は心に穴が空いたような空虚感を抱いて、腑抜けになって、しばらくは何も手につかなかったし、何もやる気にならなかった。


「その喪失感を埋めるにはどうしたらいいと思う?」

「代わりのものを見つけるのが一番簡単だと思う。しかし、失ったものと同等のものがそんなに簡単に見つかるかが問題で、もしかしたら永遠に見つからないかも知らない」

 謙介は大翔には真維が死んだことは決して言うまいと思っていた。

 運営も何も発表していない。大翔やファンの心の中では永遠に彼女は生き続ける。それがファンにとっても亡くなった彼女にとっても、幸せなことだろう。


ヒロトはあの頃のことを考えた。緊急事態宣言が出て、ライブが中止になり、大学も休講となったあの時。

 取り憑かれたように勉強に打ち込んだことで、喪失感と寂しさと空虚感を和らげられたような気がする。

「代わりのものが見つからない時は情熱を捧げられる別のものを見つけたらいいと思う。それも負のものではなく、正というかプラスの生産的なものに」


 謙介は唸るような思いになった。

「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」という諺があるが、子供はどんどん成長し、こうして親を追い越してゆくものなのかと思った。


「確かにそれが正解かもしれない。それは素晴らしいことだと思う。ただ、みんながみんなそんな立派なことを出来やしない。中には辛さに耐えかねて、精神に支障をきたしたり、酒や薬に溺れたりする人もいるだろう。でも、大半の人はみんな、自分なりの方法で喪失感や孤独や苦しみや悲しみとどうにか折り合いをつけている。忘れるということが大きいかな。忘却というのは人間の能力で最も優れた最も貴重なものの一つだと思う。

 向かい風に乗って次々と吹いてくる出会いも別れも、誕生も死も、喜びも悲しみも、楽しいことも辛いことも、幸せも不幸も、すべて全身で受け止め、心の中にそれらを仕舞い込む。  

 ある出来事の記憶は心の真ん中に置き、ある記憶は心の片隅に押し込んで。そうして、歩けなくなる日が来るまで歩き続ける。それが生きてゆくということだと思う」

「それで幸せなのかな?」

「それは歩みを止める時、死ぬ時でないと分からないのかもしれない。その時になって、自分の人生を振り返り、自分が生きてきた意味や意義、幸せだったかどうかが分かるのではないかなと思う」

「その時、自分の人生は意味なかったとか、不幸だったと思ったら、怖いな」

「いや、非業の死でないかぎり、仮にやり残したことがあったとしても、闘病で耐え難い痛みを伴う治療を受けていたとしても、真っ当な人生を精一杯生きてきて寿命を全うした場合は、最後の一瞬は達観するというか、穏やかで安らかな気持ちで死を迎えられるのではないか、そのように思う」

 謙介は真維のことを思い浮かべながら、そう言った。そうであって欲しかった。

 

 ヒロトは謙介のことを流石だと感じていた。長年一家の長として、家族を支え、二人の子を育ててきた男の言葉には重さと厚さがあるように感じた。

「俺もいつかお父さんのようになれるかな?……立派な父親になれるかな?」

 謙介は目を見開いた。息子からそんなことを言われるとは思いもよらなかった。すごく嬉しかったが、自分はどうしようもなく駄目な人間だという自覚がある。

 大翔は一途に真維を応援してきた。しかし、自分は度々疑い、浮気までしてしまった。自分の方がずっとしようもない。

「何を言う。そんなことないよ。俺よりもお前の方がずっと立派になるよ」


 別れ間際、ヒロトは言った。

「ねえ、再婚する気はないの?」

 またも思いもかけぬ言葉をかけられて、謙介は目を丸くした。

「何を言う。親を揶揄うなよ」

「いや、本気だよ。半年後には俺の仕送りも必要ないし、これからは親父の好きなように暮らしたらいい」

 謙介はまじまじと大翔の顔を見た。立派な大人の男の顔になっていた。

「そんな相手はいないよ。でも、もし、そんな相手が出来たら、その時は相談するよ」

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