懐かしい漫画


 飯田橋の駅から電車に揺られて数分、俺と水戸部さんは秋葉原駅に訪れた。

 水戸部さんの好きな作家さんが新刊を発売したらしく、どうしても今日買いたかったらしい。


 初めて訪れる秋葉原は雑多な印象を受ける街であった。


「あ、ありがとうね。か、買い物に付き合ってもらって……」


「水戸部さんの本が発売したらどんな形で販売されるか見ていたい。それに俺たちは友達だ。――気にするな」


「な、なんか友達と秋葉原に来るのは照れるよ……」


 夕方の秋葉原はサラリーマンと買い物の人が沢山いた。

 俺たち東口から裏通りを歩き、目当てのアニメショップを目指す。


「それにしても、絶対今日買う必要があるのか?」


「……うん、えっとね、小説や漫画って……、発売してから一週間が勝負なんだよ。……特に無名の新人作家にとっては外せない期間」


 頭の中で色々と記憶を引き出すが、似たような記憶は無かった。

 俺の知らない事柄だ。


 水戸部さんは真剣な顔で続けた。


「それが続刊に繋がるからなんだ。……出版社の営業部の人はそこで判断するの。いくら作者や編集さんが続刊を願っても、数字が全てだから……。――一巻、二巻で打ち切りの新人作家が山程いるんだ」


「……なるほど、水戸部さんが急いで買う理由が分かった。……これは俺たちにも言えることなんだな?」


「うん……、連載が始まって、一巻までは確約されているけど……、もし人気が無かったら……」


 水戸部さんはさっきまでの真剣な顔が崩れて、眉毛がハの字になってしまった。


 せっかくの笑顔が見れなくなってしまった……。


 俺はおもむろに水戸部さんの眉毛を両手で上げてみる。

 くいくいと眉毛を動かすと、普通の位置に戻った。

 水戸部さんはポカンと口を開けて恥ずかしそうだ。


「か、か、神楽坂君!? だ、駄目だよ! お、女の子の顔に触るなんて……、わ、私は勘違いしないけど……、普通は勘違いしちゃうよ!」


「――笑っている方が可愛い。食べている時の幸せな顔は、こっちにも感情が伝わってくる。……心配するのは漫画が出来てからでいいじゃないか? 今は楽しもう」


 楽しもう? 楽しい……、そうか、俺は水戸部さんと一緒にいて楽しいと思っているんだ。



 水戸部さんがいきなり立ち止まった。

 顔を両手で覆っている。

 泣いているわけではない。顔が真っ赤であった。

 ここは橋の下の交番の前だ……。怪しく思われていないだろうか?


 水戸部さんは深呼吸をしていた。


「すー、はーーっ……、すーー、はーーっ……、うん、神楽坂君は自分がイケメンだって自覚した方がいいよ……、わ、わたしは創作仲間だから、だ、大丈夫……」


 俺はイケメンと言われて、中学の事を思い出してしまった――










 中学になり、ある程度失敗が無くなったと思っていた。

 同級生と普通に話せていると思っていた。


『隼人、お前漫画ばっか描いてるな? うめえけど、オタクなの?』

『隼人ー、わりいけど、この宿題やってくんねえ?』

『ははっ、お前マジで頑丈だな! 腹超固えな、本気パンチしていいか?』

『はやと君さー、あんたオタクでイケメンじゃん、ちょっとあのデブに喋りかけなよー』

『ぷっ、千早……、新しい遊び? ちょっと面白そう――』


 だが、今思うと友達ではなかった。

 俺をおもちゃにして遊んでいただけだ。

 言動がおかしかった俺を笑い者にしていただけだ。


 あの時の俺は学校で絵を描いても問題ないと思っていた。

 だが、高校になって哲也が隠れて描いた方が良いと教えてくれた。


 幼馴染である京子は他のクラスであった。


 俺はクラスメイトの女子生徒に言われて、花園さんに話しかけた。


『花園さん、あははっ、すごく素敵な絵ですね。俺も絵が好きで……、あっ、ここに座っていいですか?』


 お相撲さんみたいな体型をしている花園さんはメガネをくいっと上げて俺を睨みつけた。


『……や、やめて下さい。……話しかけないで下さい……』


 この時はなんで嫌がっているかわからなかった。

 俺が失礼な男なだけかと思った。

 だが、水戸部さんの小説を読んで、人間関係の複雑さを勉強した今ならわかる。


 花園さんは俺と関わっていじめられたくなかったんだ。

 好きな絵を描いているのを邪魔されたくなかったんだ。


 俺はこの時、花園さんの気持ちがわからなかった。

 だけど、花園さんの絵を見て――素で喋っていた覚えがある。


『……オリジナルキャラ? この漫画は見たことがない。……漫画本以外で俺よりも絵がうまい人を初めて見た』


 それは自慢しているわけではなかった。俺の基準は漫画の本であった。

 だから、同級生でまともな絵を描いている人をほとんど見たことがなかった。


 花園さんは鼻息を荒くして絵を隠した。




 この時から毎日のように花園さんのところへ行って、色々話すようになった。


『来ないでって言いましたよね? え? 描いた漫画を見たい?』

『つ、机に直接描かないで下さい! ノ、ノート貸します』

『……私の方が絵がうまい? え、冗談ですよね? 神楽坂君の絵は特別ですよ』


 俺は花園さんに興味がなかった。だが、花園さんの絵に興味を持てた。

 キャラが生きていた。俺では描けなかった漫画を描いている。

 それが何か知りたかった。


 だが、花園さんは俺を拒絶した。


『……ご、ごめんなさい……、神楽坂君と一緒にいると……、わ、私……いじめに……』



 俺はこの時、いじめというものを認識した。子供が残酷だと理解していなかった。

 自分が受けている時は気にならなかった。

 俺のせいでいじめを受けているのは良くない事だと理解できた。


 俺がクラスメイトをどうにかする前に――、花園さんは引っ越してしまった。


 寂しいという気持ちがわからなかった。悲しいという気持ちがわからなかった。

 ただ、最後に花園さんの絵が見たかった――









「か、神楽坂君? だ、大丈夫? すごく悲しそうな目をしてたよ」


「悲しい? そうか……、悲しかったんだな。あの時の気持ちは」


「あの時? ちょ、ちょっと話が見えないって!?」


「……あとでゆっくり話す。水戸部さんには俺の全部を知ってほしいから」


 あの時、実際はクラスメイトが花園さんをいじめていたわけではなかった。

 花園さんが何かの理由をつけて、俺と距離を置こうとした。

 それは引っ越しかもしれない、クラスメイトから本当にいじめられると思ったのかも知れない。


 ……俺は一時期、花園さんとだけしか喋らなくなった。それで、女子から文句を言われた事がある。花園さんも文句を言われたのか?


 真実は本人に聞かなければわからない。




 ……もしも、水戸部さんが俺のせいでいじめにあったとしたら――


「水戸部さん、一つお願いがある。――俺と一緒にいるせいで、もしもいじめにあったら、学校では離れて――」

「離れないよ」


 水戸部さんは即答した。

 俺は言葉を発せなかった。


「絶対離れないよ。私と神楽坂君は友達で創作仲間だよ。――嫌がらせなんかに負けないもん! ……え、も、しかして神楽坂君、あのあと嫌がらせを?」


「いや、俺は嫌がらせを受けていない、少し昔を思い出してな。……そうか、友達だからか――」


 あの時、俺に共感性があったら結末は違っていたのだろうか?


「――ん、早く行こ!」


 俺たちは裏通りから中通りへと移動して、大型アニメショップへと入っていった。


 ――そういえば、漫画を買うのにアニメショップなのか?











「あったーー! これこれ、平積みされてる! 花吉先生やったね!」


 アニメショップの二階にある、漫画専用のコーナーにお目当ての作品が置いてあった。

『気になる同級生は殺伐ヒロインに恋をする。二人が同居する甘い――』


 花吉メグルという作者さんの新刊である。

 どうやら俺たちと同じ出版社で、これが一巻目で同期に近い存在であった。


 中身は見たことがないが、WEB連載では高い評価を得ていたらしい。

 かなりの冊数がお店に置かれてあった。

 ……しかし、この表紙の絵は……。


「えへへ、花吉先生とはツイッターでお友達なんだよ! お互い陰キャで根暗だから話がすごく合うんだ」


「水戸部さんは根暗では――、ん?」


 変な気配を感じた。

 本棚の陰からチラチラを俺たちの行動を伺っている。

 俺が花吉先生の本を手を伸ばすと――、人影が本棚から伸びた。


 俺の持っている本を見ながらしきりに頷いていた。

 俺は本を元の場所に戻した。


「――あ、ああっ」


 小さな声が聞こえてきた。

 俺の知っている声であった。

 あの時は何も感じなかった声なのに――


 懐かしいという感情が理解できる。


「あっ!? どうしたの?」


 俺は水戸部さんの手を掴んで、声の方へと向かった。


「ひぃ!? か、神楽坂君!?」


 随分、見た目が変わった花園さんが腰を抜かして本棚にすがりついていた。







「――久しぶりだ。花園さん」


 その言葉に花園さんは驚いた声を上げた。


「へ? な、なんで私がわかるの!? 痩せて昔と体型が違うから――」


 水戸部さんが自分のお腹を触りながら声を漏らした。


「うわ、すごくキレイ……、正統派美少女って感じ……」


「ええ!? あ、あなたこそ超可愛いじゃん……」


 昔と口調が随分と違う。

 だが、本物の花園だ。体型が変わっても間違えようがない。


「花園はここで何をしていたんだ? 状況から理解できるが……、水戸部さん、そういうものなのか?」


「え? 何が?」


「だから、作者が本屋に来て棚をチェックする事だ。この絵柄を忘れるわけない」


 花園は照れたように頭をかいた。


「へ、へへ、気になるでしょ? だって、初めての本なんだからさ」


「ほえ? え、花吉先生!?」


 水戸部さんはすっとんきょうな声を出して驚いていた――






 俺たちは近くにあるUDX内のカフェでお茶をすることにした。

 もちろん新刊は買った。作者の目の前で買うという珍しい行為だ。


 水戸部さんと花園さんは自己紹介を終えたあと、なぜかお互いをチラチラ見て照れていた。


 花園さんはフラペチーノというおしゃれな飲み物を手に持って俺に言った。


「……まさか、神楽坂君に会えるとは思わなかったじゃん。……ていうか、ハムスケさんって神楽坂君と――」


「うん、友達だよ」


「そう……、ねえ、ハムスケさん、本当に大丈夫? 無理やり付き合っているわけじゃないよね?」


「え? どういう事?」


 花園さんはさっきよりも暗い表情であった。

 何故だろう? 正直、俺は花園に会えて嬉しかった。

 花園さんの絵が見たかった。


「……神楽坂君は……中学の時、デブでブスな私に話しかけてくれた。……でも、それは同級生に無理やり強制された事じゃん。引っ越す前にギャルの同級生がばらして大笑いして――」


 俺が言葉を放つよりも先に水戸部さんが言葉を発した。


「――違うと思うよ、絶対。ねえ、神楽坂君、何があったか話して?」


「ああ、わかった。俺と花園さんは――」


 花園さんと水戸部さんは俺の説明を静かに聞いてくれた。

 時折、花園さんは懐かしい表情になったり、悲しそうになったりしていた。


 なるほど、こうして説明しながら話すと、心が整理できるんだ。


 全部話し終えると、花園さんは小さな声で呟いた。


「……そっか、神楽坂君は隠すのやめたんだ。……ん、もう少し、昔の私が強かったら……神楽坂君と友達になれたのかな? はは、あの頃は自分に自信が無くて、全部疑っていたもんね」


 泣きそうな花園さんを水戸部さんが優しくさすってあげる。

 俺は先程買った花園さんの漫画を包装を取って、中身を見始めた。


「……懐かしい気持ちになれる」


 うまく説明出来ない。

 この漫画を見ると、花園と過ごした時間を思い出せる。


 花園が顔をくしゃくしゃにして、俺に言った。


「……ひぐ……、神楽坂君……、何も言わずに引っ越してごめんね……、信じてあげれなくて、ごめんね……、わ、私……、やっと、漫画家になれたじゃん……。いつか、神楽坂君にあって、漫画を見せたかった……。頑張ったって言いたかったじゃん……」


 水戸部さんのときとは違う何かが心の奥から感じ取れた。

 今はそれが何かわからない。

 だが、とても温かいものであった。


 あの時の俺では言えなかった言葉。

 全てに興味が沸かなくて、関心がない俺だったけど、今なら言える。

 花園さんの背中を擦っている水戸部さんが俺に優しく微笑んでくれた。

 それだけで、俺は心が落ち着く――



「花園さん、俺と友達にならないか?」



 花園は泣きながら俺を見つめた。


「……うん、友達に、なりたかったよ……、ずっと、学校で漫画の話ししていたかったよ……、うぅ、ま、まだ遅く、ない? わ、わ、私、漫画しか取り柄がないよ? デブでブスだよ……」


「俺も漫画しか取り柄がない。一緒だな。それに、漫画家の先輩として色々教えてもらわなければな、そうだろ水戸部さん?」


「うん、花吉先生に教わらなきゃ! へへ、私も花吉先生とお友達だからね!」


「ハムスケさん……」


 水戸部さんはハンカチで花園の涙を拭いてあげた。


 俺は人の心が理解出来なくても、普通のフリをしていれば生きていけると思っていた。だが、知らずのうちに誰かを傷つけてしまっていたんだ。

 もう誰も傷つけたくない。

 まだまだわからない事だらけだが、きっと全部理解できる日が来るだろう。


 優しい顔をしている水戸部さんを見ているとそう確信できる。

 無性に水戸部さんと手をつなぎたくなった。


 ……俺がこんな風に思えるなんて――


「――水戸部さん、手を繋いでもいいか?」


「え!? い、いきなりすぎるよ!? だ、駄目! 花吉先生がいるから恥ずかしいでしょ!」


「ほえ……、あなたたち、付き合ってるの?」


「ち、違うよ!」


「ああ、俺にとって水戸部さんは大切な友達であり、創作仲間であり――、俺がすごく可愛いと思っている素敵な人だ――」

 

 ただ、思っている事を口に出してみた。そうしたらなぜか心の隙間が埋まる気分になった。


 水戸部さんは真っ赤な顔になって、花園さんに抱きついてしまった――





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