「ピン」「30秒」「ワンピース」
@fluoride_novel
「ピン」「30秒」「ワンピース」
「単刀直入に言うと」
何回か一緒に来たことがあったカフェで、頼んだミルクティーに口もつけないで、彼女は席につくなり、そう言った。
「私と、別れてほしいんだよね」
*
「お前の分の席もとっておいてやるから」という言葉を信じていたのに。
購買でパンを買っていた俺が文学部の講義室に入ると、友人二人がへらへらしながら俺に「ごめん、二人分しか空いてなかった」と悪びれる様子もなく言った。大学生、講義室で後ろの席取り合戦が起こるのは毎度のことで、しかも大体初回授業で人の定位置が決まるから、一番最初が肝心なのに。
「お前らざけんなよ、一番前しか席空いてないじゃん」
「惜しかったなー、あと三十秒早ければもっと後ろの方空いてたのにな」
三十秒。パン迷ってる時間が無駄だったか、現金じゃなくてカードで払えば良かったのか、おばさんじゃなくてもっと手際のいいバイトの列に並べば、三十秒早く来れたのだろうか。頭の中でぐるぐる後悔しながら、仕方なく前の席に向かう。にやにやしやがって、あいつら、後で覚えておけよ。
適当に選んだ席でリュックを乱雑に下ろすと、隣が女子であることに気付いた。長髪だったけど、ラフな格好だったから正直女子だと思って隣を選んだ訳ではなかった。一人で授業受けてる女子、珍しいなと思った矢先に教授が「はい静かにして」と言いながら入ってきた。
「この授業では、課題などペアワークを中心に進めていきます」
えっそんなことシラバスに書いてあったっけ。最前列でもぼーっとしていた俺がはっと我に返ると、周りの学生もざわつき始めていたから、みんな想定外だったみたいだ。
「近くの人とでいい? みんな仲良い人と座ってるよね」
おいおいおい待て待て待て。焦ってバッと振り返ると、「ごめーん!(笑)」と言いたげな表情で友人二人は手をこちらに向けて合わせていた。は、はぁ? 他にも、奇数人数のグループではえーどうしようといった声がちらほらと上がっていた。
「高校じゃあるまいし……」
俺の隣の席の女子も困った表情で呟いた。確かに、ペアワークで誰と組むなんて騒ぐのは高校以来だ。大学だと基本的に一人で講義を受けていても特に問題はなく、それがいいところでもあったのに。再度後ろを見ると、一人が俺の隣の女子の方を指さして「早く誘えよ」と言っている。席遠くて聞こえないけれど。「まじかよ」と口パクで伝えると、もう一人が親指立てて勝手にエール送ってきた。二人まとめて殴りたくなってきた。
「あの」
「ひゃ、はい……?」
唐突に隣から声をかけられて、変な声出してしまった。女子に話しかけられて緊張して声裏返るとか、死ぬほど恥ずかしい……あいつらに聞かれてないだけ良かったと心の底から思った。
「ペアワーク、もし良かったら一緒にやりませんか?」
「あ、はい俺も、友達とペア組めなくて……」
「あっなら良かったです。私も、友達後ろの方に座ってて」
ちらっと彼女が部屋の後ろに目をやる。どうやら俺と彼女は友達に前列に置き去りにされた仲間であったみたいで、妙に親近感が湧いた。「じゃあこれからよろしくお願いします」と俺が言うと、「あっじゃあ連絡、とらなきゃいけないと思うのでLINE聞いてもいいですか?」と彼女がスマホを取り出した。
三十秒。三十秒の遅れが俺と彼女の出会いのきっかけだった。
*
意外とこれがしっかりとしたペアワークで、毎週二人で会って課題を進めないと終えることができなかった。彼女はサークル、俺はバイトにいそしんでいて、たまたま二人とも空いていた放課後や空きコマの時間を使って週何回か会っていた。
俺は、彼女もやむを得ず最前列にいたと勝手に思っていたけれど、それを伝えると「最前列の方が黒板も見えるし、あんまり他の人の話し声聞こえなくていいから、自分からいつも前に行っている」とパソコンから一瞬目を逸らして言った。授業も、俺は卒業単位最低限しかとっていないけれど、彼女はそれよりも多く授業をとっていた。「同じ授業料払うんだったら、たくさん授業とった方が、お得じゃない?」何だか自分が急に恥ずかしくなってきた。
約四カ月の授業で、十個以上の課題を一緒にやっていたら、それなりに仲良くはなっていた。課題をこなしながら俺たちはくだらない雑談をずっとしていた。バイト先のクレーマーがうるさいとか、サークルのコンサートが近くてやばいとか。授業のこと以外で特別会うことはなかったけれど、一月末に文学部の専攻が同じ仲間で、春休み直前お疲れ様飲みをやったとき、俺と彼女は自然な流れで隣に座っていた。
「えーもしかして、もう付き合ってたりするのー?」
あの日俺を見捨てた友人がそう茶化しにきたので、「違いますよ~」と彼女が手を全力で振りながらそれを否定した。
「あっじゃあお前のバイト先の居酒屋の……何ちゃんだっけ? あの子は?」
「いやあの子は――」
そう言いかけたときに隣で座っていた彼女が、「ちょっとお手洗い行きたいので、通してもらっていいですか?」と言ったので、俺たちも立って狭い居酒屋の個室の中に道を作った。「すみません」と周囲に謝りながら歩く彼女を見ていたら、友人が「あーそういえば聞いてよ工学部の山田って、覚えてる?」と話の方向を完全に変えてきたので、ちょっとひいた。
その後十五分経っても彼女が戻ってこない。あんまり酔っている様子ではなかったけれど、変な人に絡まれたりしていないだろうな、流石に心配になって、「俺もトイレ行ってくる」と席を立った。女子トイレの前で、彼女が壁にもたれかかりながら座り込んでいて、「は!? 何してんの!?」と慌てて駆け寄った。
「お酒、ほんとはあんまり強くなくて、ちょっと無理した。でも大丈夫、もう大体酔い覚めたから」
そう言って立ち上がろうとする彼女はふらついていて、とてもじゃないけどまだ酔いが残っていた。「ゆっくり歩いて、席戻ったらお冷頼もう」と言うと、「相田くんって、チャラそうなのに、結構優しいよね」と彼女がへらっと笑った。
「『チャラそう』って、見た目が?」
「中身が見た目に反映されると思ってたから、あと言葉遣いとか、一緒にいる友達とか」
「……まぁ、少なくとも一ノ瀬さんほど真面目ではないと思う」
「うへへ」
普段絶対に見せない笑い方をするから、つい可愛いなと思ってしまった。
「いいなぁ、相田くんの彼女さんは」と彼女が唐突にぼやくので、俺は本当に目を丸くしてしまった。
「え? 俺彼女いるなんて言ってない、てかいないし」
「えっだってさっきバイト先の女の子とどうこうって」
「あの子はもう半年くらい前に、当時付き合ってた彼氏と一緒に辞めてたし」
「――なんだ、あー、なんだ、そうだったんだ……」
へにゃへにゃと笑っていた彼女が、急にぽろぽろと涙をこぼし始めるから、あまりにも想定外で俺は「えっえっ」とその場で慌てることしかできなかった。
「相田くん、彼女いるんだって思ったら悲しくなって、相田くんの彼女になりたかったなぁって、でもやっぱいないって聞いたら安心した」
「……それって、もしかして告白?」
「……私今なんて言ってた?」
覚えてないのかよって、心の中で一人つっこみながら、俺もいつの間にか同じ気持ちだったんだなって、彼女の言葉で気がついた。
「一ノ瀬さん、俺一ノ瀬さんのこと好きなんだけれど、良かったら付き合ってもらえませんか?」
彼女が、その場でしばらく硬直してしまって、三十秒経った後にようやく口を開いた。
「――え、いいの!? 嘘、え、ほんと……? 夢?」
「いや多分夢ではない」
「そっか……えへへ」
恥ずかしそうに笑う彼女が本当に愛らしくて、思わずキスしようとしたけれど、急に酔いから覚めた(ように見えた)彼女が、「待ってまだ早い……あと、ファーストキス、酒臭いのはちょっと……」と手でそれを制した。「やっぱり相田くん、チャラいよ」
彼女の言葉の裏では、居酒屋の、アルコール臭い喧騒が遠くでずっと聞こえていた。
*
結論から言うと、一月末の飲み会から付き合い始めた俺と彼女は、その年の十一月末で別れた。約十カ月間の付き合いだった。俺が高校以来の彼女で二人目、彼女にとって俺が初めての彼氏だった。
彼女も俺も誕生日が十二月で、クリスマスも十二月、月や半年で記念日を祝うこともなかったし、バレンタインやホワイトデーはそれぞれ食べ物しかあげなかったため、俺たち二人の間に形に残るものはほとんどなかった。ツーショット写真もほとんど撮らなかったし、それを見ると彼女のことを思い出してしまう、といったようなものがない、というのは今となっては本当に良かったと思う。
ただ、ひとつだけ、彼女に返せていないものがあった。
*
七月、期末テスト直前で俺は彼女の家に上がって、二人で勉強していた。エアコンがあったのに、彼女は「今ちょっと節約してるから」と言って電源はつけてもらえなかった。代わりにうなる扇風機、俺が買ってきたアイスの容器二つ、二人の汗が染みたシーツ、いつもと景色が違う夏に、内心どきどきしていた。
「夏休み、どこか旅行行こうよ」
「行けるかな、サークルの合宿と被らなければ多分大丈夫」
「俺もそうか、いつものノリでバイトのシフトたくさん入れられちゃってたわ」
「休み、合うといいね」
休みが合うとか合わないとか、意外と大学生も忙しいものだなと思った。
しかし扇風機だけだとやっぱり暑くて、彼女の首筋の上をさっきから次々と汗が滴り落ちている。顔も、若干いつもより赤らんでいるように見えた。
「……何見てるの?」
「なんか彩花、えろいなって見てた」
「はぁ? やめてよ!?」って半分キレた返事がくると思っていたのに、彼女はパッと顔をそらして、「何それ、はず……」と小声で呟いた。火照った体を冷まそうとTシャツの胸元をパタパタさせる。それブラ紐見えてるぞ、煽ってるのか?
まだまだ欲望にまみれた大学三年生の俺は、しばらく面倒で髪を切っておらず、伸びた前髪から汗が滴って目に入って沁みた。目をつぶって悶える俺に、彼女は「私のヘアピン使う?」と言うと、自分のポニーテールの後れ毛を留めていたヘアピンを外すと、代わりに俺の前髪に挿した。
「なんか、かわいい、似合ってる」
「何それ褒めてるの?」
「うん、褒めてる」
満足げに笑う彼女が愛おしくなって、それが起爆剤になって、俺は彼女に噛みつくようにキスをした。三十秒、時々聞こえる荒い息遣い、二人の間に籠った熱と、汗が途中で口の中に入って、しょっぱかったのをよく覚えている。
結局夏休みは二人の休みが連続で合うことがなく、旅行には行くことができなかった。どちらかというと田舎の大学だったため学生が遊べるところは限られていて、映画に行ったり、外食したり、他にはどちらかの家でゲーム、ネットフリックス、後はやることやって、大きなイベントはない夏休みだったけどそれなりに楽しかった、と俺は思っていた。
大学が再開すると、彼女が所属するゼミが忙しいらしく、会える回数が激減した。俺も、バイトが何人か辞めてしまったためその穴埋めに駆り出されることが多くなった。LINEの返信速度はどんどん遅くなっていった。
十月、久しぶりに会った時、いつもボーイッシュな服装が多い彼女が珍しくワンピースを着ていた。白地に青の花柄のワンピースを、彼女は「あんまり似合ってないよね」と笑っていたけれど、俺はいつもと違って新鮮だったし、女の子らしくて可愛いと思った。夏の間、エアコンかけずに節約していたのは、ちょっといい服を買いたかったからだと彼女が真相を話した。
*
十一月の終わりに差し掛かるころに、その頃は多分もう三週間くらい会えてなくて、LINEをするにも話すネタも尽きてきて、後から振り返るとだんだんと億劫になってしまっていたのだと思う。彼女から、火曜日に「今週末会えない?」とLINEが来て、「夜バイトがあるからそれまでなら」と言うと、俺のバイト先の近くのカフェを指定してきて、細かいところで優しいなと思った。
でもまさか、振られるとは思ってなかった。
「最近会えなくなっていたし」「自分一人の時間が楽だなって思って」「本当に君のことが好きなのか、わからなくなっちゃった」「こんな気持ちなのに付き合ってもらうのは、申し訳ない」
彼女がたくさん理由を話してくれるけれど、正直あまり頭の中に入ってこない。
「――俺のこと、好きじゃなくなっちゃった?」
「……君こそ、私のことそんなに好きじゃないんじゃない?」
「いやそんなこと」
「じゃあ何で!」
淡々と語っていた彼女が急に声を荒げた。あんな彼女、見たことなかった。彼女は泣いていた。泣いているのを見るのは、付き合い始めた、あの日の居酒屋以来だった。
「私といるとき、あんまり楽しくなさそう」
「そんなことないよ」
「LINEも、返信いつも適当だし」
「それは疲れてて」
「疲れてるのに、私と会えたらすぐにやりたがるのね」
図星だった。ぐうの音も出なかった。「あと、頑張ってワンピース買ったのに全然褒めてくれなかった」と彼女が言葉を付け足した。
「――ごめん俺が悪かった」
「――いや、私も、言い過ぎた。でも、」
「ごめん、もう疲れちゃった」
*
当時の彼女も俺と同じで二十歳で、若くて、まだ恋愛経験ほとんどなくて、衝動的な「別れたい」の気持ちが先走ってしまったんじゃないかと、今となっては思ったりする。ただ、当時の俺が彼女を傷つけてしまった、という事実は変わらなくて、もっと冷静で大人な恋愛ができたんじゃないかと、今になっても思い出したりする。
「まー学生の恋愛なんて、そんなものでしょ」
「それでも、あの時は『運命の恋だ!』なんて思ってたんだけど」
「でも、お前その子のこと『可愛い』って思ってても、言ってなかったら愛想尽かされてもおかしくないぞ」
また図星だった。
就職で上京した俺は、安い居酒屋でそんな四年前の昔話を同僚にしていた。シラフだったら絶対人には話さないのだけれど、アルコールが俺の思考判断能力を明らかに鈍らせていた。
「それで、その子は今何してんの?」
「さぁ、就職はしてると思うけれど、別れてから本当に一回も話していない」
俺たちの別れは、典型的な「また仲の良い友達に戻ろう」で締めくくられたはずなのに。学部で見かけても見つけていないふりをしたり、あの時は友達に戻れる自信が俺にはあったのだけれど、結局は「元カノと元カレ」の関係のままで俺たちは止まっている。
「ヘアピンが、ずっと捨てられない」
「お前……意外とメンヘラだったんだな」
うるせぇ、東京で女の子とっかえひっかえのお前には言われたくなかった。
*
「あっ待ってて、最後にトイレ行ってくるから」
会計を済ませて、店を出ようとした矢先に同僚がまた店の奥に戻る。「早くしろよ」「ごめん三十秒で済ませるから」
財布の中にこっそり入れているあのヘアピンを、一度取り出してみて、あの日から一度もつけてないけれどやっぱり捨てる気になれないなと思いながらまた財布に戻した。
仕方ないから電車の時間でも調べようとしたら、「ありがとうございましたー!」店員の声と女性複数人の会話が聞こえてきた。店の扉を開けようとした先頭の女性と肩がぶつかって、目に入ったのは見覚えのある青い花、ワンピース。
「え」
「あ」
俺らの運命がもう一度動き出すのに、今度は三十秒もいらなかったみたいだ。
「ピン」「30秒」「ワンピース」 @fluoride_novel
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