第2話
高谷紫(ゆかり)はその日もいつものように、朝5時に起きて朝食を作り、夫と6歳の娘を起こした。
銀行員の夫は優しいが真面目が過ぎて、窮屈な思いをする事もある。時間にもうるさく平日と休日とでは起きる時間が違っており、その通りに声をかけなければ不機嫌になるのだ。どうしてもその時間に起きたければ自分で目覚まし時計なり携帯のアラームなりをセットして起きれば良いと思うのだが、結婚している醍醐味は、『朝、奥さんに起こされる』という事らしく、これも朝の決まり事の一つになっていた。
結婚して7年。時折面倒になるが、起こしてしまえば、出社の準備は全て自分でやってくれるのでまぁ良いかと思う。それにその習慣に慣れてしまった自分がいる。
娘の唯香(ゆいか)は今年から幼稚園に通っていて、楽しいらしく制服も自分で着て、ハンカチとティッシュも自分で準備をするほどだ。週に一度お弁当の日があるがそれ以外は給食なので助かっている。
私はというと、娘が幼稚園に行きだしてから前職の医療事務にパートタイムで復帰した。月水金と二週に一度木曜日の勤務である。そこの病院にもよるのだろうが、木曜日の午後は休診なので午前出勤を交代で割り当てているのだ。
本日は木曜日で出番の日である。
「ごめんなさい、あなた。今日は出勤の木曜日だから、唯香のお迎え頼める?」
直角に椅子に座っている夫はいつも、この言葉に右の眉毛を少し上げてから、私を見る。
「出勤日の木曜日は、午前勤務だが、午後にいつも出来ないカルテや帳簿や伝票の整理をその日の当番さんがするんだったね。分かったよ」
夫は少しくどいのである。
「ええ・・。いつもごめんなさい。普段の日は3時で上がらせてもらっているから、ニ週間に一回くらいは手伝ってくるわね。今週はちょっと混んでいたから、書類も沢山あるのよ。ごめんなさいね」
夫を送り出し、唯香を連れて幼稚園へ向かう。幼稚園の先生に今日の迎えが主人である事を伝え、病院へ向かった。
病院では予約の確認をする事から仕事が始まる。午後が休診のため、午前に予約が沢山入っている。それらを何とかこなして昼1時過ぎには、最後の患者の診療が終わった。
「お疲れ様でした」
自分のデスクを片付けて、席を立つ。
「高谷さん。お疲れ様」
「すみません。お先に失礼します」
「ええ。今週は私たちの当番だもの、いいのよ。お昼を食べて精を付けてから片付けるから」
紫は小花柄のチュニックドレスに着替えを済ませ、病院を後にした。実は伝票の整理は月に一度の当番なのだが、夫には二週に一度と伝えていた。
紫は青木書店へ向かった。
紫が青木書店へ通うようになったのは、パートを始めてから少ししてからだった。医療事務も少しずつやり方が変化しているため、使えそうな参考書を探すためだった。
子供を産んでから育児と男の子を期待していた主人の両親の目への気疲れとで、痩せていくのが自分でも分かった。スタイルが良い事とやつれている事は違う。それはわかっている。何とか自分らしさを取り戻そうと、前職に戻り自分の居場所を探し始めた。しかし、離れていた7年の間に現場も変わり、以前は何かと頼りにされていたのが今ではついていくために勉強をしなくてはならない。そんな現状にふと寂しさを覚えて入った本屋で、どこかアンニュイな雰囲気を持っていた店主の青木に声を掛けた。
本を探してもらう目的で声をかけたが、話してみると、空想的ではあるものの知的で、奥様の実家が裕福なので本来は働かなくても暮らしいけるらしいのだが、自分の城が欲しくて、本に囲まれていたくて、経営をしているという事を笑顔ではあるもののどこか自嘲気味に語る青木に親しみと可愛らしさを感じた。
誘ったのは私からだった。最初はお茶を飲みながら話をするだけだったが、一線を越えたのはいつだったか。それぞれの趣味、嗜好、思想などを話し合った。お互いに家庭がある事は知っているというだけで、それらがほとんど話題になる事はなかった。
紫は日々繰り返される日常の中で、時折のその時間が永遠に続けば良いのにと思うようになっていた。青木と一緒にいる時間が本物の私の生活で、結婚生活の方が青木の言い方を借りれば空想の時間であると。
今日は青木にその話でもしてみようかと思いながら、書店のドアをくぐる。
今日はいつもと様子が違う。それだけは分かった。
白いワンピースに花柄のエプロンドレスを着た女の子が雑誌を買っている。可愛いわね。唯香ももう少ししたら、今読んでる絵本ではなくて、あんな風に雑誌を読みたいと言い出すかしら。
紫は女の子を見送ると、お客然として声をかけた。まだ本屋には他にお客様がいたので。
紫はその日、殺された。
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