フィナーレ①
10月30日、ついにその日がやってきた。
唯の40歳のバースデー。和やかなスタート地点でのセレモニーの中で「ハッピーバースデー」の曲が流れ、拍手の中心に唯がいた。
何人かが唯と短い言葉を交わし、移動が始まった。一般の応援の人達は大会側が用意しているツアーバスに乗ってゴール地点に向かった。
勝は約65キロ地点にある第ニフィードゾーンに、史也と凛は約90キロ地点にある最終フィードゾーンに向かった。
三人はそこでボトルなどを渡し終えたら大会側が用意している車に乗って、選手より先回りしてゴール地点に向かう事が出来る。
スタート時刻が刻々と迫ってきた。この日も絶好の天気に恵まれていた。唯と風斗は最前列に並び「出来る事は全てやってきた」という充実感に溢れ、ニ人で一緒にスタート出来る喜びを噛みしめていた。
午前6時、選手達は一斉にスタートを切り、パレード走行が始まった。ニ人は集団の前方で会話を交わしながら、とてもリラックスして走っていた。
あっという間にリアルスタート。そして第一フィードがやってきた。
風斗が前方に上がり、オフィシャルからペットボトルをニ本取って、一本をポケットに入れた。
再び唯の隣に戻ってきて、唯が飲みやすいように蓋を開けて渡そうとすると、すでに唯はペットボトルを持っていて、両手離しをしてその手で普通に蓋を開けているではないか!
唯が両手を離すなんて見た事がなかったし、いつもは手の自由が効かないから口で開けている。
風斗はびっくりして唯を暫く見ていたが、唯はそれが当たり前のように平然と水を飲み、その水を最後にちょっとだけ自分の首筋にかけて、空になったペットボトルをフィードゾーンの後方に投げた。
あまりにも自然過ぎる一連の動きだった。鳥肌が立った。
唯は完全にスイッチが入っている。このレースに集中しきっている。もう不自由な身体を持つ唯はここにはいない。
風斗は何もかもが信じられない気がしたが、何もかもを信じる事が出来た。そして自分自身に集中を向けていった。
第ニフィードには勝がいた。唯のロード選手としての復活を最高に喜んでいるひとりだ。
車いすに乗った勝が目一杯に手を伸ばして差し出しているボトルを唯が受け取った。
「風谷唯が戻ってきたぞ〜!」
勝は
勝の目からは涙が溢れていた。
勝さん、ありがとうございます。和也さん、オレ再び走ってます。あの頃のように。
言葉に出す事はなかったが、心の中は感謝の気持ちで満ち溢れていた。
唯は勝の前を通り過ぎた後、後ろを振り向きもせず右手を上げた。
後ろに付いていた風斗の声がした。
「くっそ。唯の奴、めっちゃカッケー!」
あの日の光景が蘇った。
四歳でスポーツバイクに乗った風斗がこちらを振り向きもせず右手を上げて、オレは「くっそ。あいつめっちゃカッケー!」と叫んでしまったあの時。
風斗はそんな事覚えているはずないよな、と思って少し笑ってしまった。
ずっとずっと追いかけ続けたあいつの背中。風斗先生、見ててくれよ。今日はオレの背中を!
言葉を交わす事は無かったが、ニ人はずっと一緒に走っていた。時にはニ人でローテーションを組みながら先頭を引いた。
決して
苦しい時間帯は同時に訪れるものではない。しかし、ひとりではない。お互いの力がお互いを支え合い、ニ人が最高の力を出し合えている。
いや、そんな表現ではとても足りない。
これが風谷唯だ。
風斗はこんな唯を初めて見た。これまで抑えられていた物、押さえ付けていた物を全て解き放った自由がここにあるような気がした。
唯の全身からみなぎる覚悟を、風斗は全身で感じていた。
同じ時を、今を、一秒だって無駄にせずに一緒に駆け抜けてやる! 例え今この時が最後でも何も後悔する事はないと、ただただそんな最高の時間を積み重ねていた。
最終フィードには史也と凛がいた。
史也を見つけた唯は、掛けていたサングラスを取って史也に向かって投げた。
唯の目と史也の目がサングラス越しではなく合わさった。
あの東京オリンピックの時と同じように、そこに熱い風が吹き抜けた。
「唯」
「史也さん」
たったそれだけの言葉を交わした。それで充分だった。
手渡されたボトルをしっかりと握った。
史也の隣にいる凛の耳には小さな星が輝いている。
「夢?‥‥‥じゃないよな?」
唯達が通り過ぎ、史也がキツネにつままれたような顔を凛に向けた。
凛は走り抜ける唯の姿をただただ追っていた。その目からは止めどなく涙が流れている。
これが唯。これが本当の唯の走り。今まで見たどんな夢より夢みたいな現実。どんな夢より美し過ぎる現実。
数秒後、史也は我に返って大声で叫んだ。
「唯! 風斗!」
凛も我に帰り精一杯の声を出した。
「唯〜! 風斗〜!」
ニ人は後ろを振り返らずに右手を上げた。
ここから勝負が始まるというその地点で、ニ人は史也と凛からガッチリとパワーを受け取った。
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