アサギマダラ②

 乗鞍ヒルクライムレースは国内最大のアマチュアヒルクライムレースで、全長20キロは上りのみ。標高差1260メートルを駆け上がる。ゴール地点の標高は国内舗装道路最高点の2720メートルで、このコースは正に『空に一番近いバイシクルロード』と言われている。


 華やかなレース会場。大勢の自転車仲間達と一緒に風斗も唯も駆け上った。


 唯がゴール地点にたどり着いた時、そこは先にゴールした大勢の選手達で溢れかえっていた。風斗が唯の車いすを持って迎えてくれた。


「唯、おめでとう」

「え? か? こんな遅かったのに?」

「うん、おめでとう」

「ありがとな」


 風斗は中学生にしては身長も低く、まだ声変わりもせず可愛い声で単語を少し並べる事しか出来ない。その声は無表情な凛々しい顔とは不釣り合いだ。


「風斗はどうだった?」

「楽しかった」

「そっか、良かった」


 心地いい風が吹いていた。頂上は晴れ渡っていて、雄大な景色が広がっている。

 自転車で上ってこんな素晴らしい景色を味わえる所は日本ではここしかないだろう。自転車で上ったからこそ、美しい景色が余計に心に染みるのかもしれない。


 頂上での二人の会話はそれだけで、自転車を預けてオフィシャルの下山車に乗せてもらって一緒に下山した。

 下山車の中で、風斗は唯に自分から話かけてきた。そんな事は初めてだった。


「アサギマダラ、とんでた。ふわふわふわふわ。海、渡る、ふしぎな蝶々。羽に文字、あった。マーキング、あった。海、こえてきた。キラキラキラキラ。

 ウソ、いた。のど赤いトリ。はっとした。ぼく、『ウソ!』って言った。

 ホシガラス、いた。星空みたいな羽。マツボックリはこぶ。森作るトリ。

 花いっぱいある。ぼく、ここ好き」


 一生懸命に言葉を見つけて話す風斗の一言一言を、唯は頷きながら真剣に聞いていた。


「そっか〜。よかったな〜」

 そう言いながら、風斗がこんなに喋った事に驚いてないで普通に会話を続けなきゃと思った。


「へ〜、オレなんて、そんな物一個も目に入らなかったよ。集中の仕方が違うのかな? たぶん普通の人は集中してたら、そんな物、目に入らないだろうけど、風斗の場合は集中してないんじゃなくて、そういう集中なんだろな。

 オレは時々、風斗の『センス・オブ・ワンダー(Sense of Wonder)』っていうのかな? その感性の中に入って、世界を見てみたいって思うよ」


「ただ、ぼくの好きな世界」


「ところで、アサギマダラって言ったよな。その蝶。オレ、そのふわふわと舞う可憐な蝶をこれまで何回か見た気がするんだ。夢の中だったか現実だったか忘れちゃったけど、何か天使みたいで不思議な気持ちになった事は覚えてる」


「連れてくれる。夢の世界に」


 ほどなくニ人はそれぞれの夢の世界に入っていった。



 午後から行われる表彰式。

 風斗は中学生の部で優勝していた。唯は風斗が当然優勝するだろうと思っていたし、本当はもっともっと早いタイムでゴールすると思っていた。チャンピオンクラスで一時間五分で走った中学生よりも十五分も遅いタイムだった。


 風斗はレースを本気で走ってないのは明らかだったが、楽しかったって言ってたし下山車の中であんなに話が出来たのだから、この大会を一緒に走って本当に良かったと唯は思っていた。


 風斗は壇上に上がってチャンピオンジャージを着せてもらい、すぐに唯の所に戻ってきた。


「おめでとう!」と唯が迎えた。

「ありがとう。でもこれ、ほしくない」

「え? 何で?」

「んー。がんばらなかったから」

「え?」


 唯は何て言ってあげればいいかわからなかった。それでも何とか思いを口にした。


「そっか。いいんだよ。今の気持ちを忘れないようにこのチャンピオンジャージを持ってなきゃな。一緒に考えような。風斗が頑張りたい物、欲しい物は何なのかを」


 風斗はその言葉に何かを感じたようだった。


「うん。ぼくこれ、大切にする」

 そう言って大きく頷いてみせた。



 そのまま他のクラスの表彰式を見ている時、大会役員が唯の所にやってきた。


「風谷唯さんですよね」


 役員は唯に大会の特別賞を授与したいので、この後壇上に上ってもらえるかを尋ねてきた。


 多くの参加者達はこの大会を唯が走ったという事をまだ知らなかったが、会場のあちこちで話題になり始めていた。

 今、車いすに乗って表彰式を見ているのが、あの風谷唯で、今日のレースを走り切ったという事が多くの人達に勇気や感動を与えていた。

 十数年前に起きた唯の事故の事は大きなニュースになったし、東京パラリンピックでの活躍は多くのメディアに取り上げられた。

 唯が再び自転車に乗れるようになった事もニュースになり、日本人なら殆どの人が名前を知っている。


「会場の皆様の前で一言でいいから話してもらえませんか?」

 そう言われた。


「壇上に上がるのは介助も必要だし大変だから、下でもよければ光栄です」


 役員は「勿論」と言って唯を案内した。

 進行はスムーズに行われ、司会者が会場の人達に唯の事を簡潔に紹介し、特別賞を授与した。

 唯も手短に、再び自転車に乗れるようになってこのレースを走れた喜びと、支えてくれている人達や応援してくれている人達への感謝の気持ちを述べた。


 会場には高校・大学時代に一緒にレースを走っていた人もいて、そんな人達は唯の復活を心から喜び、沢山の祝福を受けた。


 このサプライズは唯には勿論、それを見ていた風斗の心にも響くものがあった。

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