アサギマダラ③
家に帰って史也と凛に結果を報告すると、凛は唯の復活レースでの完走と風斗の優勝を心から喜んだ。
史也はそこそこ喜んでる感じで、それは唯と風斗の喜び方と似たような感じだった。
少し遅くなった夕飯時の話題はレースの事ではなく、もっぱら下山時に風斗が唯に話しかけてきた事だった。
当の風斗は聞いているのか聞いていないのか、ひたすら食べる事に熱中していた。あの下山の時のように風斗から何かを話す事もなく、また殆ど話をする事はなくなっていた。
あのレースでゴールした時から、唯は何かがずっと引っかかっていた。
それが何なのか分からなかったのだが、三日間位考えて何となく分かった気がしてきた。
唯は少し重たい気持ちになってしまい、風斗に話してみようと思った。唯は就寝前に風斗を呼んだ。
「なあ、風斗。オレ、乗鞍走って色々思う事があってさ、ちょっと
「いいよ」
唯がこんな風に風斗に話かけてくるのは初めてだった。風斗はちょっとドキドキしていた。
「ちょっと難しい話かもしれないから聞いててくれるだけでいいから。話に割り込みたかったらいつでも口開いてな」
唯は風斗の顔を横目でチラチラ見ながら、そのまま話を続けた。
「オレ、もう乗れないと思ってた自転車に乗れるようになって、レースって名の付くレースをまた走る事が出来て、嬉しかったんだ。レース前、ゴール出来たらどんな気持ちになるかな? って楽しみで仕方なかった。きっと色んな人達への感謝の気持ちで一杯になるんだろうな、嬉しく泣いちゃうかな? って思ってた。
けど、想像してた物とは違ったんだ。なんか、そういう綺麗な気持ちじゃなかったんだ。嬉しい気持ちや感謝の気持ちは勿論あった。あの会場でみんなに話した事も本心だった。
でも本当はそれよりも、こんな風にしか走れない悔しさとか、こんな走りは自分の走りとして認めたくないみたいな気持ちの方が大きかったんだ。
オレはもういい歳した大人だから、そんな気持ちを押し殺して、それなりに嬉しそうに明るく振る舞っていたけどさ。
おい、ここまで出来るようになった自分自身をちゃんと認めてやれよっていう自分の声も聞こえるんだけど、認めたくなくてさ。
レースってエグいよな。自分自身の実力を思い切りつきつけられる。女子より遅くしか走れないんだぜ。
オレが昔インカレのレースを走り終えた後、恩師が亡くなる前に言ったんだ。
『ゴールした時に感じた気持ちを大切にしてほしい。それが自分でも気づけなかった一番正直な気持ちだろうから』って。
ここまで走れるようになった事に感謝してもっと喜ぶべきだとは思ってるんだけどさ。感謝よりも欲の方を強く感じてしまう自分が何か
「当たり前だろ。それが唯だ。嫌になるなよ」
声変わりをした若い少年のような低い声が聞こえた。
「えっ?」
風斗が言ったのか?
風斗は自分が何を言ったのか分かっていないような顔をしている。
風斗の心の声か? 唯にもよく分からなかったが確かに風斗が言った言葉だ。
そして唯はハッとした。
それでいいのか? 何か恥じてしまっていたけれど、それがオレ。少なくとも風斗は認めてくれているんだと感じた。
何だか胸に熱い物を感じていると、いつもの幼い声が聞こえてきた。
「ユイは自転車選手。だから、そう思う。そう思う」
今度はいつものように一生懸命単語を探して選んで言葉にしてくれたようだ。
「風斗〜。ありがとう! そうだな。何か一気に霧が晴れていく思いだよ。風斗先生〜。やっぱり風斗はオレの先生だ。ありがとうございます!」
唯は深く深く頭を下げた。
「オレ、もっと頑張るよ。風斗はレースの後、何か考えた事があったら話してくれないか?」
「うん、えっと、えっと」
「いいぞ、ゆっくりで。上手く繋げようとしなくていいからな。単語を並べていけばいい」
「うん。ボク、ユイとちがう。自転車、好き。仕事にしたくない。ユキヒョウ、好き。仕事にしたい。夢、野生のユキヒョウといっしょにくらす。でも。でも」
「でも?」
「がんばって上りたい。レースはがんばる。がんばらないはうれしくない。のりくら、好き。がんばって、いちばんで上る」
唯は涙が出そうになったが必死に
「いいぞ、風斗! 頑張ろうな。来年は一緒にチャンピオンクラスを走ろう! 今のオレには厳しいけど、絶対そこで走れるようにするから。風斗は一番を目指すんだぞ」
「いっいっ!」
風斗はもうちゃんと返事を出来るのに、わざと赤ちゃん語を使った事は唯には分かっていた。
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