第3章 grow up(成長)〜乗鞍ヒルクライム〜

雪豹①

 四歳の誕生日にスポーツバイクに初めて乗った風斗は、自転車に夢中になった。運動神経は抜群に良いが、あの日を境に何かが変わってしまった。


 この子はいったい何者なんだろう? 史也と凛は心配になった。 

 あんなに無邪気だった風斗が言葉を発する事がなくなり、感情も表に出さなくなってしまった。


 右の頬にアザを付けたわんぱくそうな顔は、それまでは無邪気な表情と相まってとても可愛いかったのに、表情が消えると雰囲気がガラッと変わった。

 少し切長の美しい目は人の目をしっかりと見る事が出来なくなり、人を寄せ付けたくないという雰囲気をかもし出している。


 しかし、自転車に乗っている時は、とても躍動感があり生き生きとしている。はたから見て、普段何を考えているのか分からない事が多いのだが、自立しているというか、あまり面倒はかからない。


 スポーツに関しては特に努力をする事なく、何でもスッと出来てしまう所が風斗にはある。

 という言葉がピタリと当てはまるような才能の持ち主でありながら、風斗にとってはそれが最大のコンプレックスでもあるようだ。

 は周りの皆に讃えられる。しかし、努力する事無しに、努力する人の上に行く事は嫌われる事、責められる事が多い。その上「あいつは出来て当たり前」のように見られる。


 もしかしたら、四歳で自転車に乗って誰よりも速く走ったのに、皆が唯を取り囲んでいた事、それが無意識のうちに彼自身の価値観を作り上げていたのかもしれない。


 何件か病院に行き、医者にも診てもらったが、原因は分からなかった。自閉症というのとも少し違うようだ。

 ある意味発達障害と言える所もあるのかもしれないが、身体は極めて健康で、誰かに迷惑をかけるという事でもないので、史也も凛も唯もそれが風斗の個性であると考え、普通に生活を送り、普通に小学校にも通うようになった。


 風斗の表情が変わらなくなってしまってからは、史也と凛でさえ風斗の思いを感じ取る事は難しかったが、なぜか唯とは通じ合える所があった。



 唯はテレビで野生動物が出てくる番組をよく見ていた。

 大きな筋力を発揮する事が出来ない唯にとって、手本としているのは野生に生きる先生達だ。


 渡り鳥や渡り蝶はあんなに小さくて、あんなにか弱そうなのに、信じられないような長距離の旅をする。彼らの美しい姿と動き、透明感、躍動感、速さと力強さ。自分の力で動いているというよりは、ガイア(地球そのもの)の力を自分の力にしているような感じ。


 唯は健常者と同じ動きは出来ないけれど、麻痺により力が抜けてしまっている身体に、何かを上手く通す事が出来れば(ここが非常に難しいのであるが)、そんな動きが出来るのではないかと考えている。


 唯が野生動物の番組を見ていると必ず風斗もやってきて隣で一緒に見ていた。風斗は何も返事をする事がなかったが、唯はいつも一方的に話かけていた。


「カッケーな。あの雪豹。柔らかくて力強い無駄の無い動き。憧れるな〜。

 表情はあんまり変わらないけど、雪豹から何か感じるだろ? なんか風斗みたいだ。オレも風斗から感じる事色々あるからさ。

 もしも、もしも風斗が普通の人みたく喋れなかったり表情を変えられない事で悩んでるとしたら、それは大丈夫だから。


 心が無かったらそれは困るけど、風斗には綺麗な心があるから大丈夫だ。オレには分かるよ。

 風斗の目は綺麗だから、そこに心が映るんだ。ほら、今、風斗はとってもいい目をしてるよ」


 風斗は何て綺麗な目をしているんだろう。唯は何度その目に吸い込まれそうになった事か。

 唯は幼い頃は喜怒哀楽がすぐに表に出る子犬のような少年だったが、母親を亡くした時にそのショックから感情と言葉を失ってしまった時期があった。だから状況は違えど、風斗が持っている寂しさのような物を感じてやる事が出来る。


「そうだ。近いうちにズーズーに連れてってもらおう。動物達がいっぱいいるぞ。史也さんに頼んでみるから」


 ズーズーは家から車で三〇分程で行ける動物園で、動物達を小さなオリに入れずに野生に近い環境で展示してある。



 翌日、史也と凛と唯と風斗はズーズーにいた。車いすを漕ぐ唯のペースに合わせて四人はゆっくりと園内を見て回っていた。


 ある物を見た時、風斗の目はそこに釘付けになった。


 どうしたんだろう? と思って唯がその視線の先を見ると、雪豹の赤ちゃんが風斗に視線を送っていた。


「何なんだ? こいつら」

 同じ目をしている。見つめ合うその目と目には何か崇高な神々しい物を感じた。


 風斗がその雪豹に向かって駆け出したので三人も慌てて付いていった。オリ越しではあるが、風斗とその雪豹は何か会話でもしているような感じだった。


「カート」

 風斗が言葉を発していた。


「えっ?」

 三人は驚いた。風斗の声を聞くのはいつ以来だろう? 

 確かに、確かに今、風斗は言葉を発している。「カート」という言葉を何回も。その声は今の風斗の雰囲気とは似つかない、これまでと同じ可愛らしい声だ。


 その雪豹の赤ちゃんは生まれてから今日が初めての展示で、名前を募集していた。凛は迷わず応募用紙に「カート」と書き、応募箱に入れた。


 風斗がその場所から動きたがらなかったので、史也と凛は他の動物を見て周り、唯と風斗は閉園になるまで飽きる事なくずっとそこで雪豹を見ていた。

 赤ちゃんの両親と思われるニ頭が威厳のあるゆったりとした動きをしているのに対し、赤ちゃんは活発に動き回っていた。



 テレビで唯と一緒になって見てきたというだけでは済まされないような、どうしようもなく惹かれる物がそこにはあった。

 風斗は居ても立っても居られず、毎日自転車でズーズーに通った。

 風斗は人の話す言葉は理解出来ないようだが、その人の持っている思いみたいな物は大体わかるようだ。


 風斗がズーズーに一人で行ってしまう事を心配した三人は色々と話し合いを重ねた。

 ズーズーの園長さんがとても理解のある人で、風斗は小学校に行く代わりにお昼までは飼育員の手伝いをする事を条件にズーズーにいる事を許された。


 驚いた事に風斗はズーズーで即戦力になった。

 午後からは家で勉強か自転車。勉強は凛か唯が根気強く教え、自転車は史也が教えた。

 時々唯も一緒に練習する時があって、風斗は表情は無くてもとても喜んでいるように見えた。

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