覚醒①
唯はハイハイを出来るようになった頃には体力もだいぶ戻ってきていたので、足こぎ車いすという自転車のようにペダルが付いた車いすに挑戦し始めた。
最終的に自分でペダリング出来るようにもっていきたいのだが、この車いすは押してもらうとペダルが回るので、自分で漕げなくてもペダルに足を乗せておけば勝手に足が回る仕組みになっている。
その動きを繰り返し行う事で自ら漕げるようになるという未来を、唯は容易に想像していた。
しかし、実際には中々上手くいかなかった。上手くいかない最大の理由は唯の脚の
痙性とは麻痺に伴う副作用で、脊髄損傷を負った者の多くがこの厄介な物に苦しめられている。
自分の意識とは別に反射のように急激な筋収縮が起こり、勝手に身体の一部が動いてしまったり、筋肉の硬直が起こってしまったりする。
事故後、痙性が強かった唯はかなり薬を使って抑えていた。痙性は悪い事ばかりではなく、自ら動かせない身体の血液循環を促したり、筋肉や骨を劣化させない為に有益な事もある。痙性を利用した身体の動きが可能となる事もある。
それでも唯の場合は、強すぎる痙性が日常生活を送る中で明らかに妨げとなる事の方が多く、薬を使わざるを得なかった。
薬のせいで、みるみる脚の筋肉が無くなっていく事は辛かったが、自立した生活を目指す中では仕方がなかった。
ラグビーを始めてパラを終えるまでは、競技の妨げにもなる痙性は抑えなければならない物だった。
しかし自転車に乗る事に挑戦する為に、優先させる物が変わっていった。その為には筋力が必要だ。痙性を抑える事は優先されなくなり、薬も辞めた。
その結果、ペダリング運動を行おうとするとすぐに痙性が入り、上手く行う事が出来なかったのだ。
唯の脚の痙性が入りにくいような体制を取れるように、史也が足こぎ車いすを改良していった。
押してもらった時にペダルが常に回ってしまわないように、ボタン一つでペダルの静止状態と自動的回転との切り替えも可能にした。
唯自身も少しずつ痙性を自分でコントロール出来るようになり、年が明けて暖かくなってきた頃から、凛に押してもらいながら足こぎ車いすに乗る時間が増えていった。
ペダルに脚を乗せて回され続ける事はまだ出来なかったが、押してもらいながら、今はゆっくりニ回転したら暫く休んでという感じで乗っている。
ある晴れたとても気持ちのいい日、凛はいつものように足こぎ車いすを押しながら唯に言った。
「今日は調子良さそうに見えるけど、どんな感じ?」
「今日はすごくいい感じです。何か新しい事、出来ちゃうかもって気がします」
爽やかな風が心地いい。
「私もそんな気がする。ちょっと遠くの気持ちいい所まで行ってみない?」
「わ、嬉しいな。お願いします。そこに行くまで、ニ回ゆっくり回して、三分休みの繰り返しでお願いします」
唯の指示に凛は笑った。
「了解。自転車選手って時間をきっちり決めてやるんだね。史也もローラーに乗る時、いっつもそうだし。今はね、勿論自分の為っていうのもあると思うけど、唯のメニューを色々考えながら乗ってるみたいよ。選手時代は雨でも風でも外ばっかりで、怪我して外に行けない時位だったんじゃないかな、ローラーは」
「まじですか? 早く乗れるようにならなきゃな〜」
唯は笑っていたが、それを聞いてまた決意を新たにした。
ニ回ペダルを回す事は、今の唯にとってかなりの集中を要する。 痙性が出ないようにリラックスした中での集中。凛も唯の様子を見ながら出来るだけゆっくりと一定の速度で押す事に集中する。今日はこれまでの中で一番スムーズに動かせている。
思ったより早く目的地に到着した。
そこは小さな公園、というか草むらの中にベンチがいくつか置かれているような広場だ。春の草花たちがたくさん笑っている。
ベンチの横に唯の乗った車いすを止めて、凛はベンチに腰を下ろして言った。
「今日はここで脚のマッサージをしてみていい? 誰も見てないし、別に変じゃないよね。唯が嫌じゃなければ」
「いいですよ。室内より気持ち良さそうだし。オレはその間目を閉じています」
「ちょっと車いすの向きを変えるね」
凛は昔見た夢の事を思い出していた。
あの時の夢のような事が起こるはずはないと思ったけれど、もしかしてもしかして、もしかしてって、夢を心から信じてみようと思った。
凛は深呼吸をして心を透明にし、唯の脚をさすり始めた。
何も思わなかった。何も感じなかった。どれくらい時間がたっただろう。
ふっと唯の足の親指に一頭の蝶がとまった。
え? アサギマダラ? 嘘でしょ?
凛の心が言った。唯の顔を見た。唯の顔に変化は無かった。
何も感じないの? 感じるでしょ? 感じて!
心の中で叫んだ。アサギマダラはふわっと舞い上がった。
きれい‥‥‥。でも、やっぱり夢のようにはいかないんだ。夢の中では黄蝶だったな。あの時、唯は蝶がとまった事を感じとったのに。
そう思うと涙が溢れてきて、その一粒が唯の脚にポタリと落ちた。
「え? 雨?」
目を閉じたままの唯が言った。
「え? 何か感じるの?」
凛の心臓がドクンドクンと音を立てた。
唯は目を閉じたまま答えた。
「そんな感じがしただけ」
凛は力を込めて唯の腿をつまんで捻った。
「いて!」
「唯!目を開けて!」
凛はもう一度、唯の腿をつまんで捻った。
「痛いです!」
満面の笑顔をした唯。
凛は唯の腿をバンバン叩いた。
「感じます。オレの脚が感じています」
「えっ! ほんとにっ⁉︎」
薄っすらとかかっていた雲の隙間から明るい日の光が差し込んだ。
「ねえ、唯。私、昔似たような夢を見たの。ちょっと違ったけど凄く似てる夢。今は夢じゃないんだよね」
「夢じゃないです。不思議だな。オレも昔、似たような夢を見た事があります」
「そんな事があるなんて‥‥‥」
凛は車いすに座っている唯を思い切り抱きしめた。
唯はひとつ大きく息を吐いた。
「凛さん、史也さんに連絡して下さい。オレは先生に電話を入れます」
凛が浸っていた夢のような時間が断ち切られた。
唯はどんな時も現実を見て前に向かっていってしまう人だ。今も昔も、そんな唯がちょっと憎らしく、とても
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