第2章 wake up(目覚め)

覚悟①

 おぼろげに目が覚めた。深い深い霧の中、焦点が定まらない。


 ここはいったいどこなんだ? ぼんやりと見えてきた白い天井、一頭の蝶がふわふわと舞っている。いいなぁ、オレもあんな風に自由に空をんでみたい。上手く風に乗れよ。

 しかし、なんなんだろう、この重苦しさは。

 ん? ここはどこかの建物の部屋の中か? 蝶がいるはずないよな、天井に付いたシミなのかな? 

 そんな事を思いながらオレは再び眠りに落ちた。



 次に目が覚めた時、誰かが顔を覗き込んでいた。

「す、すみません。オレ、もう大丈夫です」

 そう言おうとしたが言葉にならなかった。

 インカレのゴール後のような気がしていた。


 少しずつ目の焦点が合ってきた。

「史也さん‥‥‥」


「おっ! 唯、やっとお目覚めか」

 史也さんの声を聞きながら、オレはなかなかクリアーにならない思考を何とか現実に持っていこうと努めた。

 そこは病院の個室だった。殺風景な部屋には史也さんと風斗を抱っこした凛さんがいた。


「あー、良かった。目が覚めたのね。まだ苦しい? 先生呼ぶね」


 優しい声。あの頃看護師だった凛さんの姿が重なった。大学一年生だったあの頃、凛さんにはどれほど心穏やかにしてもらった事だろう。


「あ、待って」

 思いがかろうじて声になった。オレは少しずつ現実を理解し始めた。


「何日目?」

 上手くろれつが回らないが、一応喋れる。


「今日で術後一週間。唯、よく頑張ったね」

 優しい声が心地よい。


「ありがとうございます」

 それだけ言うのがやっとだった。


「先生呼ばなくちゃ」

 凛さんはナースコールを押した。


 すぐに看護師さんがやってきた。


「風谷君。大丈夫ですか? 後で先生が来てお話しますからね。今、辛い所はありますか? 熱と血圧だけ測らせてもらいますね」


 血圧は正常だったが、まだ熱は高かったので、新しい氷枕が用意された。史也さんにも凛さんにも色々話はしたかったが、まだ苦痛の方が大きくて目を閉じた。


 しばらくして先生がやってきてくれた。オレはウトウトしていたが聞き慣れた先生の声で目が覚めた。


「おー、唯君。大丈夫かい?」


 あまり大丈夫でもなかったけれど、少し安心したし、先生にはちゃんと挨拶をしたかった。


「あ、はい。先生、ありがとうございました」

 何とか喋る事が出来た。先生が話を始めた。


「悪いな。苦しい思いをさせてしまって。今の状態は手術に対する身体の反応だから、心配する事はない。苦しさは徐々に軽減していくから、もう少し我慢してな。

 手術は最善を尽くした。ずっと話していた通り、今は未知の部分が多過ぎて、今後の可能性は私達が一緒になって開いていくのみだ。頑張ってやっていこう。

 痛みや苦しさは軽減できる物もあるから、何かあれば看護師に遠慮無く言ってくれな」



 唯が史也と凛に決意を話した一ヶ月後に、若林によって唯の頸髄再生医療手術が行われ、術後一週間が過ぎていた。


 唯は自分の決意を史也達に話した後、すぐに若林に相談をした。唯のように頸髄を損傷し、ほぼ完全麻痺の人に対して、しかも怪我をしてから四年も経っている人に対して有効な再生手術は今の所存在しない。

 研究は色々と行われているものの、中々安全面がクリアーにならない。

 そんな中でニ人は相談の結果、若林が注目している研究段階の手術を行う事に合意した。リスクは伴うが、手術によって唯の下半身を動かせるようになる可能性はゼロではなくなる。


 そうは言っても自転車に乗れるようになる可能性などは無いに等しい。

 しかし、若林がこれまで唯を診てきた中で常識を超える事が何度もあった。今の段階で他の人には絶対に行えない手術であるが、唯ならば乗り越えられるかもしれないという思いがあった。

 二人の覚悟は一致した。唯は自転車選手としての、若林は医師としての大きな覚悟を持って行われた手術であった。

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