初挑戦③
まさにこの場所を、トップ集団は一時間前に二十名程で通過していた。
その中には風斗の姿があった。ここに来ても風斗の身体はよく動いていた。
いや、ここに来て周りの選手達の
風斗の身体からは力みが全く消え、美しい動きに更に磨きがかかっているように見えた。
風斗だけは涼しげだ。27%の激坂も、その勾配を楽しんでいるかのようだ。ここでアタックを掛ければ、いとも簡単に周りの選手達をちぎる事が出来そうだが、周りは関係ないというように自分の走りに没頭していた。
ゴール迄あと3キロとなった所で一旦少し下る所があり、十数名の先頭集団はその後の最後の上りに入っていく。
ゴール迄あと2キロという標識の横を通過する。
よし、あと2キロだ。
そう思って顔を上げると遥か彼方にゴール地点らしき物が見えた。
今まで自分の走りに集中して走っていた風斗はそれを見て、まだあそこまで上るのか、と思ってしまった。
考えるな、もう一度集中しろ!
もう一つの心の声がして、自分に言い聞かせる。
その時、左の
脚が攣るという話は聞いた事はあったけれど風斗は経験した事が無かった。これが攣るって事なんだな、と意外と冷静に考える事が出来た。
あと僅か2キロだ、とポケットから取り出したカフェインとマグネシウム入りのジェルを飲み、出来るだけ脚に負荷をかけないように漕ぎ進めたが、この集団を見送るしかなかった。
一度途切れてしまった何かを取り戻す事が出来ず、身体のあちこちが悲鳴を上げ出した。たまらずペダルから脚を外す。
脚をさすり、叩く。こんな経験は無かった。ただ気持ち良く、速く走る事が好きな風斗にとって、こんな状態で苦しんで走る事に意味は見出せない。
見出せないはずだ。今までの風斗であったら、間違えなくここでレースを終えていた事だろう。
しかし、何を思ったか再びペダルをはめるとゆっくりと漕ぎ出した。
ひと踏みひと踏みを優しく優しく、慎重に慎重に重ねていってもその度に激痛が走る。
身体が動かないっていう事が、こんなに辛い事だったとは‥‥‥。
唯、唯はいつもこんな辛さと戦っているのか? 唯はこんな辛さをどうして楽しむ事が出来るんだ?
唯は今、走る事が出来ているのか? オレと同じように苦しみながら走っているのか? それとも楽しんでいるのか?
そんな思いを抱きながら、一歩一歩を積み重ねていった。
その横を何人もの選手達が通過していく。
こっちを見ながら、何も言わずに通り過ぎる者、「ファイト!」「
彼らの激しい息遣い、苦痛に歪んだ顔、乱れきったフォーム‥‥‥風斗の目に染みた。
永遠に続くかのような長い長い2キロだった。ここまで走ってきた103キロよりもずっとずっと長く感じた。
気が遠のきそうな辛さを乗り越えて最後の直線に入る。目の前にゴールがあるというのに、いつまで経っても近づいてこないゴール。変わらない景色。まるで空気の流れが止まっているようだ。
ゴール地点の大きな声援に背中を押してもらえて、風斗は何とかゴールに辿り着く事が出来た。
ペダルを外して自転車を降りようとして、風斗はその場にひっくり返った。意識ははっきりしている。
「情けねー」
自分を鼓舞して立ち上がろうとしたが、全身が震えて立ち上がる事さえ出来ない。風斗はそのまま救護室に運ばれた。
一方の唯は最終フィード地点から関係者の車に乗せられてゴール地点に向かっていた。車の中で、大会役員から風斗の情報を少し聞くことが出来た。
唯を乗せた車がゴール地点にやってきたのは、風斗がゴールしてから一時間以上経った頃だった。
風斗は大会本部にいた王から唯の情報を聞いていて、王と一緒に唯を迎えた。風斗の身体は既にかなり回復していた。
王が唯の乗っている後部座席のドアを開けると、中に乗っていた唯と外で待っていた風斗の目が合った。
何故かニ人共笑っていた。
「風斗」
「唯」
「やっちまったな。ニ人共」
唯が言うと、風斗は今まで見せた事のない憎らしい程の笑顔を見せた。
「ざまーみろ唯! ざまーみろオレ!」
王が用意しておいた車いすに唯が移乗した。王がニ人にねぎらいの言葉を掛けた。
「おニ人共ありがとうございました。送られてくる中継を通して私はおニ人の様子を観ていました。素晴らしい走りをありがとう。後程ゆっくりお話をさせて下さい。少しの間あちらのテントで休んでいて下さい」
「ありがとうございました」
唯が頭を下げた。
「唯、疲れてるだろうからオレに押させてな」
唯が何か言う前に、風斗は車いすを押し始め、そのままニ人でテントに向かった。
今回のレース結果を見れば、ニ人にとって思い切り失敗レースになってしまったけれど、思い切りチャレンジしたから悔いはないと思えた。ニ人共、失敗をこんなにも
けちょんけちょんにやられた筈なのに、レースを終えて振り返れば振り返るほど「このチャレンジは楽しかったな」と思えるのだった。
ニ人共その場で「来年」という言葉を口にこそ出す事は無かったけれど、「このままこのレースを終わりにしたくない」という気持ちだけははっきりとしていた。
ニ人が初挑戦を終えて、帰国する飛行機の中で、また風斗が自分から話をしてきた。
風斗はレースを楽しめたんだなと唯は感じた。
「唯は自由に動かない身体で自転車乗ってて辛くないのか?」
唯は風斗の顔を見た。
「何だよ、急に」
「オレ、ラスト2キロで脚攣って、身体動かなくなって、どうしようもなくなった。こんな事は初めてだった。辛かった。唯はいつもこんな辛さと戦ってるのかな? って考えた」
「仕方ない事だからさ。でも不自由な身体に慣れるって事はないんだ。歯痒さはいつもある。動くのが当たり前だと思っちゃうとダメなんだ。動かないのが当たり前の所から出来ていく喜びを味わっていってる感じかな。
乗れない事に比べたら、思うようにはいかなくても、こんなレースを走れるなんて天国みたいだよ。
でもオレはもっと自由に動く身体を手に入れて、もっと楽しく乗れるようになってみせるから」
「唯はもっと出来る。オレは自由に動く身体を手に入れた唯と一緒に走りたい。信じてるから」
「え? あ、ああ。そ、そうだな。オレ、が、がんばるよ」
「何だよそれ。もっと自分を信じろよ」
風斗はそう言うと、さっさと眠りについてしまった。
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