誘い②
一呼吸おいて、再び王が話出した。
「唯さんは台湾KOMというレースをご存知ですか?」
唯は食べるのをやめて王に顔を向けた。
「はい。100キロヒルクライムですよね。3500メートル上るやつですよね。オレ、ヒルクライムレースに出るようになってから、いつかそのレースに挑戦してみたいなって思ってました」
「本当ですか? 今年は無理でも来年は是非走ってほしいと思いまして、今日はお誘いのお話をしたかったのです」
「あ、でも今のオレにはまだ無理だと思います。いつか挑戦したいけど。風斗には走らせたいな。お前の為にあるレースみたいなもんじゃないか?」
山賊バーガーを食べ終えた風斗はチラッと唯の顔を見た。
「唯が走らないなら、オレが走ってもしょうがない」
無表情で言った。
王が飲んでいたアイスコーヒーをテーブルに置いた。
「確かに非常に厳しいコースです。一年後に唯さんが走り切るのは難しいかもしれません。でも、走り切らなくていいんです。無理のない所までで。勿論安全を確保する為に万全の準備を致します。
台湾の人達や世界中のヒルクライム好きな人達に、唯さんの事を知ってほしいのです。唯さんが走る事で多くの人達が何かを感じとってくれると思っています。
それから風斗さんの今日のあの走りを再びKOMでも観たい。風斗さんは今中学三年生ですよね。中学生は出場出来ませんが来年なら大丈夫です。おニ人共、私に全てを任せてほしい。是非走っていただきたいのです」
王はカバンの中から、大会要項のような物を取り出し、「遅くなりました」と言って名刺を唯に渡した。
「ここのメールにご連絡頂けますでしょうか。いいご返事をお待ちしています」
「分かりました。近いうちにご連絡します」
史也も頷いていた。
「そうだ、おふたりと史也さんのサインが欲しいです。唯さんは書けますか? あ〜、でもサインペンがありません。ボールペンで仕方ないです」
王が持っていたカバンの中をゴソゴソと探し始めた時、風斗が言った。
「サインペンならオレ持ってるけど」
ポケットから取り出して王に見せた。
「十年位ずっと持ち続けて初めて使う」
とか何とかボソボソと言っている。
「あ、何でもないんで」
と言い直して唯に渡した。
そのサインペンを見た凛が一瞬驚きの表情をしたのを唯は見逃さなかった。
しかしその事には触れず、唯は左手の薬指と小指にサインペンを引っ掛け、王が差し出した乗鞍のプログラムに少し震える字で「YUI」と書いた。
風斗もその隣に「風斗」とサインらしくない漢字を書き、史也に渡した。
その後、KOMの事を王が語り、たわいもない話で盛り上がった。四人は「ご馳走様でした!」と王に頭を下げ、いい雰囲気で食堂を後にした。
王と別れて四人で車に向かう途中、風斗が急に立ち止まった。
唯も合わせて車いすを止め、皆が立ち止まり風斗が向いている方を見ると、一頭の蝶が目に入った。
蝶に見えたが蝶には見えなかった。
え? これが蝶? 羽ばたいて舞い上がったかと思うとV字になってすごいスピードで滑空し、それを繰り返している。
その蝶に何か不思議なものを感じた唯は、これが以前風斗が話していたアサギマダラだと直感した。
「すげ! アサギマダラか?」
そう言いながらちょっと考えた。
でもアサギマダラはふわふわ舞う感じだって言ってたよな。やっぱ違うのか?
そんな言葉など耳に入らないように、風斗の目はその蝶に釘付けになっている。
その蝶が見えなくなると唯に顔を向けた。
「おい、唯、見たか? アサギマダラの
オレ、去年唯にマーキングの話をしたよな。羽に文字を書くそんな調査があるんだ。子供の頃、母さんが教えてくれたんだ。もしもチャンスがあったら風斗もマーキングしてみたら? ってその時サインペンをくれたんだ」
いきなり風斗がこんなに喋り出したので三人は唖然とした。
風斗の目はキラキラと輝き、小さく笑っていた。普通の人には笑っているように見えなかっただろうけれど、確かに風斗は笑っていると三人共が感じていた。
唯は危うく涙をこぼしそうになった。サインペン、そうだったのか、としみじみ思った。
凛は堪えきれずに涙を流している。隣にいた史也は優しく凛の手をとった。
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