教訓③

 唯は知りたかった。率直に聞いた。

「何が?」


「何がって。こう‥‥‥。筋肉が付いたとかじゃないんだけど。こう、動きたそうっていうか。一つの塊じゃなくて繋がりを感じるというか、上手く言えないけどいい感じ」


「でしょ? 強制的筋トレと呼吸法の成果です。ちょっとだけマッサージお願いしていいですか」


 凛はさすってみた。

「柔らかい」


 唯は嬉しそうだ。

「でしょ。力を上手く抜く感覚を少し掴めたみたいなんです。手を少しずつ下に持っていって下さい。触っている感じが変わる部分ありますか?」


 凛は唯の指示通りに手を動かして「この辺」と言った。


「そこに手置いてて下さい」

 唯はちょっと力を入れてみた。


「力入れたらダメ」

 凛は慌ててやめさせた。


「ほんの少しじゃないですか」

「今日はダメ。終わりにするよ。でも私も何か少しわかったかも。明日からやりましょう」


 凛は許してくれなかったが、唯はさも勝算あり、という感じで続けた。

「くそ〜、早くやりたいのに。まあしょうがないです。オレ、これから呼吸法を色々学んで身につけたいと思ってるから、凛さんも協力して下さい。明日からお願いします。

 あ、あと史也さん、今でも腹圧高められますか?」


 急に言われて、史也はちょっとドキッとした。

「現役の時みたいにはいかないけど、人並み以上には出来るさ」


 唯は、よしよしという感じでニンマリしている。

「あれって腹筋と別ですよね。オレ、高め方忘れちゃって。明日からでいいから教えてもらえますか? 今日は史也さんのお腹だけ見せてほしいな。イメトレ出来るように」


「おいおい」と言いながらも史也も嬉しそうだ。

「唯は腹筋が効かないからな。でも腹圧は横隔膜の動きだから、すぐ思い出せるんじゃないかな。そうだな。今ここに目を付けたのはグッドタイミングに思える。よし、今日はよく見とけ」


 そう言うと史也は風斗を凛に渡し、お腹を出して、妊婦さんのようなお腹にしてみせた。


「きゃきゃっ! きゃきゃきゃ!」

 今まで静かにしていた風斗が手足をバタつかせて笑い出した。


「あー、風斗。お父さんすっげ〜な。

 史也さん、現役時代とそんな変わらないじゃないですか」


 史也も自分でもこんなに膨らむと思っていなかったので笑ってしまった。

「ちょっと気合入り過ぎたかな。オレもまだまだいけてるな。よし、明日から一緒に特訓だ」


「はい! 宜しくお願いします」

 史也も唯も元気一杯だ。


 風斗がしきりに手足をバタつかせて「りーりー」と言っている。


「ここ、おいで」と唯。

「いいのかしら。おろしちゃって。ちょっとだけね」

 凛はそう言いながら、脇を抱えながら唯が見えるようにベッドの端っこの方に風斗をおろした。


「いっいっー、いっいー」

 両脇を支えられて立ちながら、風斗は嬉しそうに不安定なベッドの上で膝を曲げたり伸ばしたりしている。

「んー、んー」

 凛の手を振り払おうとしているようだ。


「風斗先生、一人で立ちたいみたいだね。凛さん、手を離してみて下さい」

「え? 倒れて落っこっちゃうでしょ」

「んー、んー」

「凛、やってみろ」と史也。

「わかった」

 凛はそう言って風斗から手を離した。


「いーいー、いーいー」

 風斗はふらふらふらふらと不安定なベッドの上で転びそうで転ばずに立っている。


「すっげー、風斗先生! そっか、そっか。力入れなくていいんだ。ふらふらしてても立てるんだな。オレも立てそうな気がしてきたよ。ありがとな〜、風斗先生〜!」


「いっいっ! いっいっ!」


 史也と凛は唖然として立ち尽くしていた。

 何で皆んながこんなに元気なのか、凛には理解出来なかったけれど、それがとっても嬉しかった。


「さ、長居は禁物。唯、ちょっと調子が良くなったからって、もう少し大人しくしてないとダメですよ。また明日来るね」


 唯は、学生の時の入院生活を思い出していた。看護師だった凛の優しさに救われていた頃の事を。ちょっと恥ずかしくなったが必死に真顔を作って頭を下げた。

「分かりました。宜しくお願いします」


 大きなマイナスになりかねなかったこの出来事は、どうやらそれ以上のプラス効果をもたらす事になりそうだと皆が感じていた。



 唯は順調に回復し、退院後にびっくりする程その時は早く訪れた。


 唯が一人で立つ事が出来た時、凛は嬉しさを抑えきれず、声を出して泣いた。ちょこちょこ歩きをしていた風斗がつられたように「うぇー、うぇー」と泣いた。


「かざとせんせい、ちっちゃ!」と唯が見下ろしながら言うと、風斗は「うぎゃー、うぎゃー」と声を荒げた。


「風斗も嬉しいんだな」

 史也はそう言ったが、唯は風斗に向かって言った。

「せんせいはオレがきゅうにおおきくなったから、くやしいんでしょ?」


 立つ事のアプローチは先生とは違ったけれど、先生がしっかりと脚を踏ん張って立っているんじゃなくて、ゆらゆらゆらゆら、地球の力に引っ張られながら上手くバランスをとって立っている姿を見ていて、オレも立てそうな気になっていったんだよ。


「せんせいありがとうございました」

 唯が頭を下げた。


「ゆいー、きゃきゃっきゃ」

 風斗は泣き止んで嬉しそうな声を立てて笑った。


 唯が風斗の事を「先生」と呼び、風斗が唯の事を「ゆい」と呼んでいるのは何だか可笑おかしく仕方がない。

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