小さな先生

 唯は順調に少しずつ回復し、一週間後にかなり強硬に退院した。入院中に退院後の唯の生活拠点を話し合い、唯は史也家に住まわせてもらう事になっていた。



 唯が史也の家にやってきた日の夕方の事。


 風斗が寝ている横で唯が仰向けになって身体を動かす練習をしている時だった。

 唯が風斗に視線を向けると、何やらその動きが始まろうとしているではないか。


「あっ!」

 唯はその動きがよく見えるように、何とか体勢を整えた。史也と凛を呼びたかったが、大きな声を出すとその動きが止まってしまいそうな気がしたので、申し訳ないと思いながらも観察を独り占めする事にした。


 仰向けに寝ている風斗は小さな手足をバタつかせながら首を左に倒し、右脚を上げて左脚に交差させた。


 ヨイショ! と半回転するかに思えたが、また元の仰向けに戻ってしまった。


「あ〜、惜しい」

 思わず唯の声が出た。

 そうだ、オレもマネしてやらないと。なるほど、確かにリハビリでやってきた動き方と同じだ。でも見本があるのはやりやすい。


「風斗、もう一回やってくれるかな?」

「いっいっ」


 唯は風斗と同じ仰向けの姿勢になった。

 さっきと同じように風斗は小さな手をバタつかせながら寝返りをしようとする。同時に唯がマネをする。


「首を左に倒して、右脚を上げて左脚に交差させて」というように頭で考えながら動作をしていた時は、中々うまく足も上がらず動作もぎこちなくしか出来なかったのに、ただただ風斗のマネをしようとすると何だかうまく動く。


 このまま寝返り出来そうな気がしたが、さっきと同じようにあと少しの所で風斗は元の仰向けに戻ってしまったので、マネをしていた唯も同じように戻ってしまった。


 ちなみに唯は自力で何とか寝返りは出来るのだが、いつも思い切り勢いを使ったぎこちない動きになってしまう。

 しかし、今は失敗に終わったものの、とてもスムーズな動きに感じていた。


「おー、いい感じ。風斗先生、この感じだよ。次は出来そうだ」

「いっいっ」


 いつの間にか、近くで隠れながら二人の様子を見ている史也と凛がいた。史也はビデオに収めている。唯と風斗は全くその事に気づく事なく、寝返りに熱中している。


 次はニ人共見事に成功した。

「やった! 風斗先生〜!」

「いっいっ」

「もう一回」

「もう一回」

 と何度も繰り返している。それはピッタリと息の合ったシンクロした美しい光景だった。



 その一ヶ月後には、おなかと足を床につけながらのハイハイ(ズリバイ)、そしてハイハイまで進んでいた。

 唯はズリバイが得意だ。怪我をしてからのリハビリで沢山練習してきた。ただ、その動きに脚は参加していなかった。


「せんせ〜、まてまて〜」

「ばぶぶー、ぶー」

 部屋にはニ人の声が響き渡っている。

 唯は風斗を追いかけ回し、必死に真似た。

 唯は昔から集中してスイッチが入ると信じられないような能力を発揮する事がある。自分の意識下に無い所で身体が動いていくようだ。


 ある時、史也は目を疑った。

 ズリバイしている風斗を、同じようにズリバイして追っかけている唯の脚が、風斗と同じように動いているではないか!


 唯はただ動きを真似するだけでなく、泣いたり笑ったり、風斗の発する言葉も真似た。

「くー」とか「あー」とか、まるでニ人とも赤ちゃんのようだ。


「何も、そんな所まで真似なくていいんじゃないか?」

「自分も赤ちゃんになりきった方が上手くいくような気がするんですよ」

 そこまで真剣なのか、というよりは赤ちゃんの世界を楽しんでいるようで微笑ましい光景だった。


 ニ人は大の仲良しだ。視線が常に同じ所にあるからか、風斗は唯を本当の友達のように感じているのかもしれない。

 唯も赤ちゃん語が解るのか、たまにニ人で「あう〜」とか「ばぶ〜」とか何かおかしな会話をしている。


「ゆい〜」

 ある日、初めて風斗が発したと思われる単語、それが「まま」でも「ぱぱ」でも無くて「ゆい」だった事に史也と凛は苦笑するしかなかった。



 ハイハイは少し難関だった。風斗はある日突然、ズリバイからハイハイを始めた。


「え?」

 唯は流石にそこに入って行けずにストップしてしまった。四つん這いの姿勢が取れない。


 唯が「だー」と叫ぶと風斗が振り向いて戻ってきた。

 何と、風斗はお腹を擦った状態から四つん這いになる所を「ん、ん」と言いながら何回も唯に見せてくれた。唯は一生懸命に真似をして、遂に四つん這いになる事が出来た。

 そこから手足を動かせるようになるまで何日もかかったが、風斗に遅れを取りながらも、唯は少しずつマスターしていった。



 立つ事。

 これは今の唯にはハードルが高すぎると思えた。唯が風斗に真剣に聞いていた。


「せんせいはちっちゃいから、たちやすいですね。オレはおっきいから、ひざでたつのでいい?」


 風斗は「いっいっ」と無邪気に頷いた。

 こうして、風斗が一歳の誕生日を迎える前に唯も膝立ちが出来るようになっていた。



 立って歩く事は? 

 そこに時間をかけるよりも、自転車を考えた。風斗が自転車に乗れるようになるのは何歳頃だろう? 唯はこれは史也さん次第だなと思って相談した。


「史也さんは先生を何歳位で自転車に乗れるようにさせようと思ってるんですか? オレもそこを目標にしたいなと思って」


「唯はどれ位で出来ると思ってるんだ?」


「んー。何となくだけどあと三年位かな?」


「なら、風斗の四歳の誕生日を目標にしよう。それってエルゴメーター? 固定ローラー? リカンベントとか、ママチャリとか?それともロード?」


「勿論ロードです」

 唯がきっぱりと言い切った。


「あと三年でロードか。中々ハードな目標を立てたな。なら、風斗も四歳でスポーツバイクに乗れるように仕向けるか」


「はい。オレ、先生に負けないように頑張ります」



 あと三年‥‥‥あと三年でロードバイクに乗れるようになる。


「史也さん。三年間、そこに懸けさせて下さい。無期限で史也さん達にお世話になり続ける事は出来ない。三年で出来なかったら、いつまでたっても出来ないと思います。三年で出来なかったら諦めます。絶対に出来るようになりますから、よろしくお願いします」


「そうだな。絶対に成し遂げような」

 ニ人はしっかりと目を合わせた。

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