覚悟③

 史也と唯が最後に話をしてから一週間が経った。

 その時の緊張と興奮が災いしたのか、唯の身体の状態は更に悪化してしまっていた。

 その日の体調は今までで最悪という感じだった。病室には風斗を抱っこした凛がいたが、唯は殆ど目を閉じていた。

 

 唯が小さな声を出した。

「凛さん、いますか?」


 凛は慌てて唯の顔のそばに近づいて言った。

「どうしたの?」


 唯は続けた。

「史也さんに話たい事があって」


「分かった。連絡してみる」

 凛は病室を出ると史也に電話を入れた。


「もしもし、私。今どこにいるの?」

「どうした? チームのトレーニング中でオレもライド中だけど」

「唯が史也に話したいって。今日はかなり調子悪そうなの。出来るだけ早く来てほしい」

「分かった。こっちは切り上げてそのまま向かうから。でもちょっと遠くまで来ちゃってるから一時間後くらいかな」

「うん。気をつけて来てね」と凛は電話を切った。


 その事を話すと唯は「ありがとうございます。到着したら起こして下さい」と言って目を閉じた。


 一時間位が経ち、凛は史也からのLINEを受け取った。

 史「下に到着した。唯は大丈夫?」

 凛「ずっと眠ってるけど落ち着いてる」

 史「ちょっと先生に話を聞いてから病室に行く」

 凛「了解」



 史也は若林と連絡を取り、病院の入り口で落ち合った。若林の姿を見つけると、史也は息を弾ませながら挨拶も忘れて言った。


「先生、唯はどうなんですか?」


 若林はいつも通り落ち着いていて表情を崩さない。

「ちょっと良くないな。強い薬を入れてるから、殆ど眠ってると思うけど、危ない状態ではない。精神的なショックだけは与えないようにな」


「そうですか。分かりました。自分が悪かったのかもしれません。少し会ってきます」

 史也は自転車ウェアーのまま病室に向かった。


 病室に入ると唯は眠っていた。史也は凛と目を合わせ、二人で無言で頷いた。凛が唯の肩を叩いた。


「唯、史也が来たよ」


 唯は薄っすらと目を開けた。

「史也さん」

 唯の小さな声を聞いて史也はそばに寄った。

「大丈夫か?」


「オレ、史也さんの顔もはっきり見えなくなっちゃいました」


 史也は涙を押し殺し努めて明るい声を出した。

「おい! じゃ、ちゃんと分かるように手を握ってやるからな」


 そう言って唯の右手を握った。すっかり細くなった手と中途半端に曲がった指を握った時、思わず目から涙が溢れてしまったが、明るい声で続けた。


「大丈夫だ。ちょっと強い薬のせいで眠ってるだけだからって先生が言ってたし」


 唯は声を振り絞った。


「はい。史也さん。失望に繋がる期待は、その期待の仕方に間違いがあるんだって事に気づきました。それと、じゃなくて、がやっと出来ました。たぶん‥‥‥」


「たぶん?」

「はい。たぶん」

「充分だ。唯。いいぞ。ありがとな。出来るさ。頑張ろう。今は生きる事に全力を注げ」


 それを聞いて、唯の口元が少しだけ緩んだ。

「大丈夫ですよ。成し遂げる為にはこんな所でへばってられない。オレは今、そんなに弱っちくないですから」


「こいつ! もういい。今日はもう休め。疲れるから休め」

 握っていた手を離し、唯の手をふとんの中にそっと戻した。


「いっいっ」

 可愛らしい声が聞こえた。風斗は何度もこの病室に来ていたが、この病室で初めて笑い声を上げた。


「ありがとうございました」

 唯は目を閉じた。目を閉じると真っ暗な世界の中に透き通るような美しい蝶が数頭ふわふわと舞っていた。


 凛は少し離れた所から、誰も入り込む事が出来ないであろう史也と唯を包み込んでいる空間をじっと眺めていた。自分が涙を流している事さえ気づかないようにじっと眺めていた。



 今日、史也さんはどんな目で自分を見てくれていたのだろう? 史也さんの顔ははっきりと分からなかったけれど、とても優しい目に感じた。一週間前はあんなに怖い目に感じたのに‥‥‥


 一週間前の史也さんの目が再び蘇ってきた。その目がどんどんはっきりとした物になってきて、唯はハッとした。

 あの時、怖さしか感じなかったその目の奥に優しさが見えた。


 今日感じた史也さんの目と、あの時の目は同じ目だったのかもしれない。

 オレはあの時、優しさばかりを求めていたから、それに気づけなかっただけなのかもしれない‥‥‥


 その目と東京オリンピックの時にサングラス越しに合わさった目が再び重なった。変わらないその目がオレに力を注ぎ続けてくれている。、それをはっきりと感じた。



 唯の体調の悪さはその日がピークだった。その日を境に体調が少しずつ良くなっていった。一週間程で熱は平熱になり、元気な唯が戻ってきた。

 そうは言っても、ニヶ月近くの寝たきり生活で唯の体力は相当落ちていた。事故で失った身体の機能を必死に取り戻してきた四年間をさかのぼってしまったような衰え方だ。


 ある日、唯はこんな事を言った。

「あー、やり直しだな。事故の後もこんな感じだったかな〜? あの時のオレ、よく頑張れたよな。またコツコツと積み上げていくのか〜。辛いな〜、やり直し、やり直し‥‥‥」


 その言葉とは裏腹に表情は明るく、意外とサバサバしている。


 史也と凛はその無念さを押し殺すように言った。

「やってきた事は無くなってない。身体や心は覚えてるから。思い出させてやればいいだけなんだ」と史也。


「思い出させてやる事が一つ。もう一つは新しく作っていく事。今の唯には新しい神経の繋がりが出来ているはずよ。その神経の繋がりに意味を持たせていけるかどうかは唯次第。いいえ、私達次第ね」と凛。


 マイナスからのスタートを苦にしていないような史也と凛の姿を見て、唯は勇気づけられた。


「あー、何かワクワクしてきたな。オレ、頑張ります。オレ弱い所あるから、もしこれからも、へこたれそうになる事があったら、また絶対に繋ぎ止めて下さい。よろしくお願いします!」


 オレ達の覚悟が完全に一致したと思えたのはこの時だった。



 凛の言葉のトーンが少し変わった。

「ねえ、唯。風斗が生まれてからもうすぐ四ヶ月よ。そろそろ寝返りを始めてもいい頃なの。生後一ヶ月だった時のあの不思議な動作は謎のままだけど、何だか唯を待っているような気がするの。だから唯も早く元気になって退院しなきゃね」


 唯が少し上体を起こして風斗を覗き込んだ。


「そっか。風斗、ごめんな。待っててくれてるんだな。オレ、すぐに元気になるから。もうちょっと待っててな。

 寝返り、ハイハイ、立って歩いて、自転車に乗れるようになる。

 オレ、頑張って先生についていくから、教えてくれな。風斗先生、よろしくおねがいします」

 唯は風斗に向かって頭を下げた。


「いっいっ、いっいっ」

 風斗は凛に抱っこされたまま、手足をバタバタ動かして嬉しそうに笑っていた。

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