9.
都内の、とある海岸沿いにて――。
見渡す限り青の広がる光景を、梅吉は呆然と眺めながら、
「牡丹のやつ、遅いなあ。まだ来ないなんて……」
何かあったのではと不安に駆られ、疑問を抱き始めるも。それは、
「おーい」
と、間の抜けた声によって、呆気なくも遮られる。
「言われた通り、着替えたけど。この格好は何だ? どうしてスーツなんか着ないとならないんだ」
「スーツじゃなくて、タキシードだ」
「タキシード?」
「ああ、そうだよ。冗談のつもりで用意したのに、まさか、本当に着せることになるとは……」
思ってもいなかったと、服に着られている桜文を見つめながら。梅吉は、げんなりと眉を顰める。
「念のため、用意しておいて良かったな。さすがにあの漁師スタイルは……。似合ってはいたが、魚臭かったしな」
「ああ……って、まだ臭うな。
おい、陽斗」
道松がそう声をかけると、陽斗はさっと消臭剤を取り出す。道松は受け取ると、それを桜文目がけて吹きかける。
突然の攻撃に、桜文は目を点にさせ、
「うわっ!? いきなり何するんだよ」
「……まあ、こんなもんか。ったく、手間をかけさせやがって」
「なあ、桜文。お前、ニュースは見てないのか?」
梅吉の問いに、桜文は小さく首を傾げながら、
「ニュースだって? そうだなあ。朝も夜も早いから、最近は、あまりテレビは見てないな。
あっ、でも、定光って俳優が、結婚するのは知ってるぞ。伯母さんがファンらしくて騒いでいたんだけど、年明け前にめでたいよなー」
能天気に返す桜文に、道松と梅吉は若干顔を歪ませながらも、
「ああ、そうだな……」
本当にめでたいやつと、声に出すことなく。二人は心の内で呟いた。
「まあ、いいや。で、どうなんだよ? 伯父さんの家での生活は」
「どうって、そうだなあ。なかなか楽しいぞ。漁を手伝っているんだが、大漁だと嬉しいしな。
それに、潮の匂いとか、カモメが飛び交う景色とか。すっかり忘れてたけど、こんな感じだったなって。伯父さん達も良くしてくれて、寂しさよりも、だけど……。
あのさ、菊さんはどうしてる?」
「どうって?」
「だから……、いや、やっぱりいいや」
桜文はへらりと太い眉を下げ、その先を自然と噤んでしまう。
梅吉は、ちらりと横目で眺める。が、それ以上口を開くことはない。
引き続き海を眺めて待っていると、陽斗の腕の中にいた満月が急に顔を上げ。そのまま、ぴょんと勢いよく飛び出してしまう。
とたとたと、満月は小さな手足を動かし。駆けて行くと、その先には――……。
「おっ、藤助に菖蒲。それに、じいさんと芒じゃないか!
どうして芒達までここにいるんだ?」
「それが、芒達も式場にいて。それで一緒に」
「そっか。芒、無事だったか? 親父に変なことされてないか?」
「うん、平気だよ!」
芒は元気良く答えると、その面を維持させたまま、提げていた鞄を漁り出す。中から取り出した一通の封筒を、芒は得意気に掲げて見せる。
「あのね、はい、これ」
「ん? なんだ……って。これは、家の権利書じゃないか……!?
こんなもの、どうしたんだよ?」
「定光お兄ちゃんに返してもらったの」
「返してもらったって、アイツが……?」
誰もがその書類に目を疑うが、一方の芒はにこにこと、一人無邪気な笑みを浮かばせている。
その愛くるしい面に誰もが見入っていたが、不意にちりんちりんと、甲高い音が辺り一帯へと響き渡った。
「おっ、この音は……。
やっと来たか。遅いぞ、牡丹!」
「ったく、どこで油を売っていたんだか」
「まあ、まあ。牡丹はよく頑張ったと思うよ」
「そうですね。無事に任務を遂行できたようですし」
「牡丹お兄ちゃーん! 早く、早くーっ!!」
「このっ……、みんなして、人の気も知らないで……!」
ぜいはあと、荒い呼吸を繰り返し。好き勝手言っている兄弟達を、牡丹は若干苛立たしく思うが、疲労し切っている足に鞭打たせ、必死にペダルを漕ぎ続ける。
程良い所で自転車を停め、
「ほら、行って来いよ」
ぽんと、菊の背中を軽く押す。
が。
「あっ……。おい、菊。ちょっと待った、忘れもの!」
牡丹は慌ててズボンの右ポケットに手を突っ込むと、手にしたそれを菊に向かって軽く放り投げる。
菊はそれをキャッチすると、そっと手を開いていき――……。
再びそれを――、クマのキーホルダーを握り締めると、燦爛とした光を散りばめながら。裸足のまま、軽い足取りで。こちらに向かって来ていた人物へと、自ら駆け寄って行った。
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