3.

 暗闇の下、どこまでも続いている白い平行線を前にして。牡丹は何度も瞬きを繰り返させる。



「あの。この塀で囲まれている所全部、豊島家のお屋敷なんですか……?」



 おずおずと訊ねる牡丹とは裏腹、陽斗はけろっとした顔で、

「そうですよ」

 きっぱりと答える。


 誰もが半ば呆然とその白い線の果てを追っている中、道松は一人だけ車から降りる。



「お前達はそこで待ってろ。

 おい、陽斗。とっととジジイの所に連れて行け」


「かしこまりました、道松坊ちゃま」


「だから、坊ちゃまって言うのは止めろ」



 半歩先行く陽斗の背中を道松は軽く小突きながら、二人は重々しい扉の向こうへと消えて行く。




 暗転。




 長い廊下をひたすら突き進み。とある部屋を前にしてようやく立ち止まると、陽斗は中に向かって声をかける。返答を確認してから、彼はゆっくりと襖を開いていく。



「こんな夜中に押しかけて来るとは……」



 一歩足を踏み入れるなり、皺枯れた声が耳を掠めさせる。その声の重さは、ただでさえ厳かな部屋の雰囲気により厳重さを色濃くさせる。


 かつん――と庭先から鹿威しの清涼な音が響いて来る中、切れ長の瞳が怪しく光る。その閃光の名残を見つめたまま、道松はゆっくりと口角を上げさせていき、

「取引に来た」


「……取引だと?」


「ああ。この血を売りに――」



 そう言うと道松は、ポケットからカッターを取り出す。カチカチと、静かに刃を出していく。そして、鋭利なそれを手の甲へと押し付け――、すうと一本、真っ直ぐな線を描くと同時、彼の皮膚にはじわりと真っ赤な直線が浮かび上がる。


 その線は、次第に広がりを見せる。指先を伝い、ぽたぽたと貧相な音を立ててテーブルの上へと落ちていく。一滴、また一滴と滴る度に、深紅色の小さな池は波紋を描きながらも大きくなっていく。


 それをじっと見つめたまま、老人は重々しい口先から一つ乾いた息を吐き出させる。



「……いくらだ? 一体いくら欲しいんだ?」


「さあ。金額はそっちで決めてくれ。生憎俺には、この血の価値が全く分からん。

 それで、どうするんだ? いるのか、いらないのか、さっさと決めろ。でないと、体から全部抜けちまうぞ。そしたらお前達は、永遠に手に入れられなくなる。俺はせっかちなんだ」



 道松は、瞳に宿した刃を決して緩めさせることはなく、「どうするんだ?」と、もう一度。朱色に染まる手を突き付けながら問いかけた。




✳︎




 一方、その頃。


 置いていかれた牡丹達は、車の中で、ただ徒に時間を過ごしている。



「道松兄さん、大丈夫ですかね。ちっとも戻って来ませんが」



 薄ぼんやりと窓越しに遠くの景色を眺めていた牡丹だが、そんな彼に、梅吉は自分のスマホの画面を見せ付ける。



「見ろよ、牡丹。道松のじいさん、アイツにそっくりだぞ。この目付きの悪さなんか、まんまじゃないか」


「梅吉兄さんってば、こんな時に……」


「だって、待ってるだけなんて。暇でしょうがねえもん。この歳なのに髪の毛がふさふさなのは、やっぱり金の力かねえ」



 くすくすと小さな笑みを漏らしている梅吉に、その能天気さが羨ましいと。呆れがちな牡丹であったが、屋敷の門から出て来る人影を捉えた。



「あっ。戻って来たみたいです……って、道松兄さん!? どうしたんですか、その流血は。あっ、もしかして……!」



 ひと悶着あったのではと、牡丹は思わずバイオレンスな映像を想像してしまい。さっと顔を蒼褪めさせる。


 おそらく彼の考えが分かったのだろう。道松は跋の悪い顔をする。



「そうじゃないが、ちょっとな。

 くそっ、思ったより深く入れちまったか」


「もう、一体何をしたの? タオル貸して。俺が押さえるから」



 藤助は半ば無理矢理道松の手からタオルを引っ手繰ると、彼の代わりに、傷口にそれを押さえ付ける。


 その様子を遠目に眺めながら、梅吉は口を開かせ、

「それで。今度はどこに向かってるんだ? お兄ちゃん」


「お兄ちゃんって言うな。ったく、どいつもこいつも。ホテルだ、ホテル」


「えっ。ホテルですか?」


「ああ。俺達の家の権利書は、あの男が持ってるからな。いくら金があった所で簡単には取り返せない。そうなると当分の間、住む所が必要になるだろうが」


「ふうん。復縁したからと言って、さすがにすぐにあのお屋敷には入れてくれないか。おまけに俺達は、招かれざる客。大事な一人娘を奪った憎き男の腹違いの子どもなんて尚更だよな」


「いえ、そんなことは。奥様は許可してくださったのに、道松様がどうしても嫌だと仰るので」



 まるで幼子をあやすような陽斗の口振りに、道松は鼻息荒く、

「当たり前だ。あんな息苦しい所で休める訳ないだろう」


「まあ、俺達も。あの屋敷に足を踏み入れる勇気なんてなかったよね」



 寧ろその方が有り難いと思うが、数十分後――……。


 停車すると牡丹達は揃って車から降りるが、またもや目を点にさせる。それを直す暇もなく陽斗の案内に従って付いて行くが、煌びやかな光景に牡丹等の身は小さく縮むばかりである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る