6.

 翌日、予想通りほとんど眠れなかったにも関わらず、それでも末っ子に乱暴に起こされ。いつも通り、痛む腹を慰める所から牡丹の一日は始まった。


 その後も、いつもと変わらない日常を繰り返すが、気持ちだけは高まっていく一方で。学校から帰宅し、夕食の準備が整うのを待つ間も、あまりの落ち着きのなさに、梅吉は呆れ顔で牡丹の腹を肘で軽く小突いた。それから、耳元に顔を寄せ、

「おい、牡丹。少しは落ち着けよ。会議は芒が寝てからだからな」


「分かってますよ。でも、体が勝手に……」



 ひそひそと内緒話をしていると、ふと台所の方で藤助が声を上げ、

「よし、できた! ごめん、お肉を煮込むのに時間がかかっちゃったや。

 それじゃあ、食べようか」


「藤助お兄ちゃん。菊お姉ちゃんがまだ帰って来てないよ」


「えっ、まだ? この時間になっても帰って来ていないなんて」



 何かあったのではと、藤助が時計を眺めて不安がる矢先。プルル……と、冷たい電子音が部屋中に響き渡る。


 藤助はエプロンで軽く手を拭くと、電話の受話器を取る。



「はい、もしもし。天正ですが」


「……藤助兄さん?」


「その声は、菊っ――!?

 もう、どこにいるの? 連絡も寄越さないで。何してるの?」



 電話の主が分かるなり、一方的に話し出す藤助だが、しかし。それを遮るよう、菊も負けじと声を発して、

「藤助兄さん。……私、もう帰らないから」


「えっ? 帰らないって……」


「私、結婚することにしたから。これからは、その人の所で暮らすから。だから、家にはもう帰らないから」


「へ……、え……。結婚って、暮らすって。さっきから何を言って……」


「そういうことだから。

 ……それじゃあ」


「それじゃあって、菊? ちょっと、菊? 菊ってば!?」



「菊!」と藤助が何度も呼びかけるが、それはなんの意味もなさない。ツーツーと、無機質な音ばかりが彼の鼓膜を震わせる。


 すっかり持て余してしまった右手を藤助は宙に浮かせていたが、結局はその手を――、受話器を掴んでいた手をそっと下ろさせる。



「どうした、藤助。今の電話、菊からだったんだろう。なんて言ってたんだ?」


「それが、結婚するからって。その人の所で暮らすから、もうこの家には帰らないって……」


「はあ、結婚だあ? ふざけてるのか?」


「ふざけてなんかいないよ! 菊がそう言ったんだ、俺だって意味が分からないよ」



 藤助は、すっかり混乱しているのか。おろおろと、右へ、左へ、行ったり来たりを繰り返す。


 そんな藤助を、牡丹等は首を傾げさせたまま見守るばかりだ。



「やっぱり菊にもう一度、ちゃんと訊いてみるよ。電話、電話っと……。

 あっ、菊! ……って、え……、なんで……?」


「今度はどうしたんだよ?」


「それが、現在使われていない番号だって。ちゃんと菊の携帯にかけたはずなのに」



 ますます困惑顔を深めさせる藤助だが、彼の服の裾を芒がくいくいと軽く引っ張り出す。



「芒? どうかしたの?」


「お兄ちゃん、あれ。あの男の人の隣にいるの……」



 そう言う芒の小さな指先を目で追っていくと、テレビの画面へと辿り着く。彼等はじっと、目を凝らしてそれを眺める。


 すると、淡々とした音声が箱の中から流れ出し――。



『本日、俳優の朱雀光定さんが、婚約発表をしました。お相手は、一般女性とのことで――……』


「え……、へ……?」


「おい、おい。まさか……」


「あれって、菊……ですよね……?」



 ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返させ、食い入るよう画面を眺め続ける牡丹達。


 だが、そこに映っている一人の少女を――、見覚えのある、いや、あり過ぎる彼女を前にして、一体どういうことなんだと、呆然とした顔をそのままに。珍しくも彼等の思いは、一つに重なっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る