2.

 薄紫色を背景に、牡丹はいつもの帰路を歩き。無事に家に到着して中に入ると、それに気付いた藤助がこちらへと視線を向けた。



「おかえり、牡丹。ご飯、できてるから」



 藤助の声に、牡丹は鳴らしていた腹の虫を宥めながらも他の兄弟達と同じよう椅子へと座る。それに続き、台所内を忙しなく右往左往していた藤助もようやく腰を下ろした。



「それでは。全員揃った所で……って、あれ。桜文は?」


「さあ。まだ部屋にいるんじゃないか?」


「おかしいな、さっき呼んだはずなのに」



 藤助は眉を顰めさせると、リビングの扉を開け、そこから二階に向かって大声で叫ぶ。


 けれど。



「桜文? 夕飯の支度できたよー。桜文、桜文ってばー!」



 いつまでも埒の明かなそうな状況に、今度は牡丹が腰を上げ、

「俺、呼んで来ますよ」

 そう言って藤助の脇を通ると、リビングを出て階段を上がって行く。お目当ての部屋の前で立ち止まると、牡丹は手の甲で軽くノックする。けれど、何度戸を叩いても、一向に反応はない。


 牡丹は首を傾げさせたまま扉を開けてみるが、部屋の中はなぜか真っ暗だ。その暗さに不審を抱く一方で、確かに人の気配を感じた牡丹は、

「桜文兄さん? どうしたんですか。明かりも付けないで」


「え……、あっ、牡丹くんか。本当だ。

 いやあ、電気付けるの、すっかり忘れてたよ」



 へらへらと取り繕う桜文に、けれど、牡丹の中では不審は募る一方だ。


 牡丹は、心配げな表情をすると、

「あの、大丈夫ですか? 兄さん、具合でも悪いんですか?」


「ううん、大丈夫だよ。なんでもない。それより、どうかしたの?」


「いえ。夕飯の支度ができたので」



 呼びに来たと続ける牡丹に、桜文は、「そっか」と一言。簡単に答えると立ち上がる。


 二人は連なって廊下を進んで行くが、ふと桜文が薄らと唇を離していく。



「あのさ、牡丹くん。菊さんとは仲直りできた?」


「えっ!? えっと、その……。いえ、まだ……」


「そっか。

 ……早く仲直りできるといいね」



 へらりと太い眉を下げ告げる桜文に、牡丹は苦い表情を浮かばせる。


 考えた末に、

「はあ、」

と。結局は、気の抜けた返事しかすることができなかった。




✳︎




 朝方早く――……。


 薄暗闇の中を揺れ動く影が一つ。けれど、その影の背後に、突然こつんと鈍い音が鳴り響く。


 音のした方に視線を向けると、そこには眠気の残る眼を擦っている梅吉の姿がある。大きな欠伸をしながらも、彼はその大柄な影へと声をかける。



「おい。

 ……本当に行っちまうのか?」


「梅吉……。ああ、そのつもりだ」


「行き先は伯父さんの所か?」


「うん。伯父さんに連絡して訊いたら、いいって言ってくれて。まあ、元々あの時も俺のことを引き取ってくれるって。そう言ってくれたのに、俺が断っちゃったからさ」


「伯父さんの家、お前の家があった近くなんだっけ?」


「ああ、同じ町内に。墓参りで毎年帰ってはいるけど、でも、いつも寺にだけ行ってすぐ帰って来ちゃうからな。ちゃんと帰るのなんて、何年振りかなあ」



 そう返しながらも遠くの情景に思いを馳せている桜文に、梅吉は薄らと瞳を細める。


 桜文の背負っている大きな鞄へと梅吉は視線を定め、

「そうか。それにしても。

 黙って出て行くなんて、随分と薄情だなあ。まるで夜逃げだぞ。仮にも十年近く、同じ屋根の下で暮らした間柄だろう」



 ぶつぶつと愚痴を溢し出す梅吉に、桜文はへにょりと太い眉を下げる。


 跋の悪い顔をさせたまま、ぽりぽりと、指先で頬を掻きながら、

「けどなあ。別に一生の別れという訳でもないから。冬休み明けには一度戻って来る予定だし、学校はちゃんと卒業するからさ」


「だからって、冬休みまであと数日なんだ。何も今日出て行かなくても、休みが始まってからでも良いだろう」


「そうかもしれないけど、でも、思い立ったが吉日って言うだろう。それに、早く菊さんを楽にしてあげたいからさ」


「楽にだと?」


「うん。菊さんがウチに来た時のことを思い出しちゃったよ。来たばかりの頃は、今みたいな感じだったなって。ちっとも顔を合わせてくれないし、俺のことを避けて、ずっと部屋の中に籠りっ放しで。

 ……菊さんに言われたんだ。『私は桜藺じゃない』って。

 俺は一度だってそんな風に思ったことなんてなかったけど、でも、菊さんがそう感じていたのなら、きっと。自分では気付かない内に、そう思っていたんだろうなって」


「それで。答えは出たのか?」



 梅吉からじっと見つめられる中、桜文は一つ小さく頷いてみせる。



「あれから色々考えてさ。分かったんだ。俺、菊さんのために全てを捨てることはできるけど、でも、反対に与えることは、一生懸けても絶対にできないんだって。

 ただでさえ俺達は、普通じゃない。だから、たとえ菊さんが受け入れてくれたとしても、これ以上、彼女に理不尽な思いはさせたくないんだ。後ろ指を指されながら生きていかなくちゃならないなんて、そんなこと……」



 桜文は一度、そこで区切る。が、すぐにもまた口を開かせた。



「菊さんのこと、頼んでもいいか? 梅吉なら菊さんに何かあっても、すぐに気付いてあげられるだろう」


「そんな重大なこと、任されてもなあ。前にも言ったが、菊は俺達にとっては大事な妹だからな。できる限りのことはするが、だからって責任は取れないぞ」


「ああ。お前になら安心して任せられるよ。

 結局、一度も“兄さん”って。呼んでもらえなかったな。たまに感じてたんだ。菊さんに“兄さん”と呼ばれている、お前達のことが羨ましいって」



 へらりと弱々しい笑みを浮かばせると、桜文は背を向け、一人玄関の戸を潜り抜ける。


 一歩、外に足を踏み出した途端。頬を撫でる冷やかな風に、小刻みに体を震わせ。鼻先に感じた冷気に天に向かって手を掲げさせると、掌の上にふわりと小さな白い塊が降りて来た。



「なんだ、やけに寒いと思ったら」



「雪か……」と、桜文は口先で呟く。


 頼りなげに降り続いているそれに、桜文は薄らと瞳を細めさせるが、再び静かな町の中をただ真っ直ぐに歩き出した。

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