3.

 日が出たばかりの、まだ薄暗い時分。


 布団に包まり、ぐうぐうと能天気な寝息を立てながらも夢心地に浸っていた牡丹だが、しかし。突然、部屋の扉が外側から開かれ、

「朝だ、おっきろー!」

 部屋中に響き渡った活発な声に続き、お腹に鈍い衝撃を感じた牡丹は、思わず、

「ぐえっ――!??」

と。蛙が潰れたような、情けない音をその喉奥で奏でる。



「おっきろ、おっきろ! 朝だぞ、おっきろ!」


「分かった、分かったから」



 ゆさゆさと腹の上で思い切り揺られ、牡丹はすぐにも降参の音を上げる。そして、痛む腹を擦りながらも、とたとたと軽い足取りで部屋から出て行く末っ子を恨めし気に見送る。



「ったく。本当に朝から元気だなあ」



 羨ましいと爺臭い感想を漏らしながらも、牡丹は素早く制服へと着替え。気怠げに階段を下りて行き、リビングへと入る。


 そのまま食卓の椅子に座って湯気の立った味噌汁を啜っていると、不安げな表情を浮かばせた芒がひょいと現れた。



「藤助お兄ちゃん。桜文お兄ちゃんがいないよ」


「え? いないって、そんな訳。だって、桜文ならまだ起きて来てないよ」



 こてんと首を傾げさせる藤助を余所に、梅吉はソーセージを摘まみながらも横から飄々とした調子で口を開き、

「アイツなら、朝早く出て行ったぞ」


「出て行った? 桜文が朝早く? 早く行くなんて、そんなこと。昨日は何も言ってなかったけど……って、まさか。隠れて稽古する気なんじゃ……!」



 勝手に結論付けると、藤助は持っていたお玉を力強く握り締める。安静にという言葉の意味を知らない三男に、ぶるぶると小刻みに肩を震わせる。


 その様子を横目に、梅吉はまたしても口を開き、

「いや。学校じゃなくて、伯父さんの家に行ったんだよ」


「はあっ!? 伯父さんの家って……。何かあったの?」


「さあな。なんでも休みの間、面倒を見てもらうとか言ってたぞ」


「そんな話、なにも聞いてないよ。それじゃあ、学校は? どうするの、まさか休む気? たとえ数日でも休むなんて、授業料がもったいないじゃないか。

 ただでさえ入院して、ずっと学校を休んでいたのに……!」



 やはり四男の心配はそこなのかと。相変わらずな兄の様子に、牡丹は一つ乾いた息を吐き出させる。


 なんだかなあ……と牡丹は浮かない気分をそのままに。今日一日を過ごすが、その思いは、いつまで経っても尾を引くばかりだ。


 その気を背負ったまま、微かな光を灯している街灯を頼りに。牡丹は帰路の途中に位置している公園を通って行くが、先程から辛気臭い息ばかりが乾いた唇の隙間から吐き出される。



(桜文兄さんが急に出て行ったのって、やっぱり菊が原因なのか? そういやあ昨日も、なんだか様子が変だったよな。

 でも、まさかあの桜文兄さんが、菊の気持ちに気付いたなんて、そんなこと。)



 あるだろうかと、結論を出すよりも先に。ふと行く末に、一つの人影が目に入る。その影が晴れていくと同時、牡丹の足は自然と止まった。



「紅葉……、」



 蚊の鳴くような声であったにも関わらず、その呟きが聞こえたのか。下を向いていた紅葉だが、ゆっくりと顔を上げていく。


 そして、宙の一点で牡丹の視線と絡まると、紅葉は軽く頭を下げた。



「どうしたんだ、こんな所で。紅葉の家、こっちじゃないよな?」


「えっと、はい。その、菊ちゃんのことが気になってしまって、それで……」


「菊だって?」



 牡丹が問いかけると、紅葉は小さく頷く。



「本当は、菊ちゃんに会いに行こうと思って。ここまで来たんですけど、でも、結局決心が着かなくて、それで……」



 最後の方は尻すぼみで、ほとんど音になってはいない。紅葉はしゅんと眉を下げる。


 けれど、紅葉はすぐに笑みを取り繕って見せるが、いつものような華やかなものとは裏腹。それは弱々しく、頼りないものだ。


 自然の流れとばかり、牡丹と紅葉は近くのベンチに腰を下ろした。紅葉の横顔を、牡丹はじっと見つめながら、

「あのさ。菊のことが気になってって言ってたけど、アイツに何かあったのか?」


「何かと言われると、特には。でも、ここの所、菊ちゃん、ずっと浮かない様子で。

 ……あの。もしかしてなんですけど、菊ちゃんの元気がないのは、桜文さんが関わっているんじゃないかなって」



「そう思って……」と、紅葉は後を続ける。だが、突如、彼女の唇から紡がれた、一人の男の名を耳にした瞬間、牡丹は思わず目を瞠らせる。



「そのこと、菊から聞いたのか?」


「いえ、菊ちゃんは何も。菊ちゃん、自分のことは全然話してくれませんから。

 でも、桜文さんが那古さんと付き合い出した頃から、なんだか様子がおかしくて。それに、つい先日、稽古中に突然桜文さんがやって来て。菊ちゃんのこと、どこかに連れて行ってしまって。その後、菊ちゃんだけ戻って来たんですけど、やっぱりいつもの菊ちゃんらしくはなくて。だから、それで……」



 紅葉の顔色は空の色同様、次第に黒い影を帯びていき、自然と頭は下がっていく。


 再び俯き、いつまでも地面と睨めっこをしている紅葉に、牡丹は疑問を抱くとひょいと彼女の顔を覗き込む。すると、紅葉の大きな瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が流れていた。


 思いもしていなかったその光景に、牡丹はぎょっと目を丸くさせ、おろおろと、情けなくも狼狽し出す。



「お、おい、紅葉? どうしたんだよ。なんで泣いてるんだ?」


「だって、だって……!

 私、菊ちゃんの気持ちに、ちっとも気付いてあげられなくて……」


「だからって、何も紅葉が泣くことないだろう」


「私、菊ちゃんの傍にいたのに。それなのに、いつも自分のことばかりで……」


「そんなこと! ないよ、きっと。うん、ないってば!」


「いえ、今だって、菊ちゃんにかけてあげられる言葉が何一つ浮かばなくて、それで。本当に、私、私……」


「えっと、一旦落ち着こう、なっ。

 あっ、そうだ。何か飲むか? 俺、そこの自販機で買って来るから」



 すっかり動揺したまま、それでも牡丹は立ち上がると、自販機に向かって歩き出す。


 けれど、その刹那。不意にぴんと、体が止まってしまう。首だけを後ろに回すと、紅葉が牡丹の服の裾を掴んでいた。


 そんな彼女の様子に、牡丹は首を傾げさせる。



「紅葉? どうしたんだ?」


「……き……です……、」


「え?」


「私、私……、私、牡丹さんのことが好きです――……!」

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