12.

 校内の、とある一角にて。


 廊下中に、忙しない二つの足音が響き渡る。



「待て、天正! 便所はそっちじゃないだろう。一体どこに行く気だ!?」


「くそっ、穂北のやつ。いつにも増して、しつこいな」



 顔だけを後ろに回し、えらい剣幕で追いかけて来る穂北を恨めしく見つめながらも、梅吉は角を曲がると、適当な教室へと身を隠す。


 足音が遠ざかるのを確認すると、ほっと一息。梅吉は肩の荷を下ろす。



「ふう、やっと撒けたか。穂北の野郎、ここ最近、一段としつこくなりやがって。

 まあ、なにはともあれ。これでサボれるぞー……って、桜文?」



 ようやく自身の他にもう一人、先客の存在に気が付くが、梅吉は首を傾げさせたまま、床に伏している桜文の元へと寄って行く。



「おい、こんな所で何してるんだ? 寝るならちゃんと家に帰って寝ろよ。

 ……おい、本当にどうしたんだよ。まさか、傷口が開いたのか?」



 ゆさゆさと、桜文の肩を軽く揺らし。梅吉がその顔を覗き込むと、桜文の額には大量の脂汗が浮かんでいた。



「違う、けど、駄目かもしれない……」



 息も切れ切れにそれだけ告げると、桜文はますます体を丸めさせた。




 閑話休題。




「ふうん、菊に股間を蹴られてねえ」



 梅吉は、未だ痛みを引きずりつつも、大分落ち着いた様子の桜文の隣に座り込む。「それは災難だったな」と、他人事のように返す。



「まあ、お前を倒すには、急所を狙うしかないからな。菊の判断は間違ってなかったと思うが。

 一体何をしたんだよ」


「何って、ただ一緒に帰ろうって。そう言っただけで。でも、菊さんは、なんでって、理由ばかり訊いてきて」


「理由だあ?」


「うん。なんでそんなことを言い出すんだとか、なんで一緒に帰りたいんだとか。

 俺、そんなにおかしなこと言ったかな。兄妹なんだから、別に変じゃないと思うんだけど」



 淡々と述べる桜文に、梅吉はじとりと目を細め、

「……俺だったら、あと三回は蹴り上げていたな」

 その台詞を聞いた途端、桜文の肩はびくんと大きく跳ね上がる。ぶるぶると大柄な肢体とは裏腹、子犬みたいに震え出す。


 情けないその姿に、梅吉は一つ深い息を吐き出す。



「そういやあ、万乙ちゃんはどうしたんだよ? 返事をするのって、確かそろそろだったよな」


「それなら、さっき断ってきた」


「断ったって……。

 そっか。お前等、なんだかんだお似合いだったのにな」


「そうかなあ。うーん、まあ、楽しかったな。万乙さんと過ごせて。なんだか懐かしい気分にもなれたしさ。

 けど、俺のしたことって、結局は中途半端でさ。万乙さんはありがとうって言ってくれたけど、でも、彼女を傷付けただけなんじゃないかって。ううん、万乙さんだけじゃなく、菊さんも……」


「もしかして、菊のストーカーのこと、自分のせいだって思ってるのか? だとしたら見当違いだし、俺達も同罪だ。菊のことは、いつもお前ばかりに任せていたからな」


「そんなこと。だって俺、約束を破っちゃったからさ」


「約束だあ?」


「ああ。守るって、約束したのに。それなのに、怖い思いをさせちゃったから。

 もっと早く気付いてあげられていたら、そんな思いさせずに済んだのに。俺が……」



「俺が」と、もう一度。口先で繰り返させると、桜文はへにょりと太い眉を下げる。窓越しに、遠くの空を見つめる。


 じっと澄んだ青空ばかりを瞳に映す桜文を横目に、梅吉はごろんと床に寝転がると、天井を見上げながら、

「お前さあ。そんなんだと、いつまで経っても彼女の一人もできないぞ」


「そうかもしれないけど。でも、やっぱり俺、器用じゃないから。菊さんにそういう相手ができるまではって、そう思うんだ。

 ほら、菊さん、寂しがり屋だしさ」


「寂しがり屋ねえ。だったらさ。いい加減、菊のこと、“さん”付けで呼ぶの止めろよ」


「え、なんで?」


「なんでって、そこまで言わないと分からないか?」



 梅吉は上半身を起こし上げると、珍しくも真面目な顔付きをする。その面を維持させたまま、目を見開いている桜文を捉える。



「菊は、俺にとっては大事な妹だ。たとえ半分だけしか血が繋がっていなかろうが、それでも妹には変わりない」


「俺だって、菊さんのこと……!」


「違うだろう。お前は俺とは……、俺達とは違う。本当は、自分でも薄々気付いていたんじゃないか? 引き返すなら、できるだけ早い方がいい。

 自分で選べ。今まで通り菊のことを妹として思い込み続けるか、全てを背負って一人の女として扱うか」



「どちらか選べ――」。酷く低い声音で梅吉は、桜文を見据えたまま後を続ける。


 一方の桜文は、生唾を無理矢理呑み込ませる。呑み込ませるが、それでもすぐにまた溜まってしまう。


 それを処理しあぐねている桜文を置き去りに、梅吉はそれでも容赦なく口を動かす。



「最後に、これだけは言っておく。本当にお前は菊が誰かに守られないと生きていけないような、安っぽい女だと思っているのか? そんな薄っぺらい約束に、いつまでも夢見ていると思っているのか? 本当に、お前がそうすることを、菊が望んでいると思っているのか?」



 梅吉は、一拍の間を空けさせてから、

「間違っても、自分と菊の気持ちとを混合させるんじゃないぞ」



 梅吉の口は、それ以上開くことはない。二人の間に、無言の時間が訪れる。


 時間の経過とともに、緊迫とした空気が室内中へと張り巡らされていく。けれど、突然背後から、だんっ――! と、響き渡った鈍い音がそれを見事に打ち壊した。



「やっと見つけたぞ、天正……!」


「げっ、穂北!?」



 声のした方に顔を向けると、そこには立腹顔を浮かばせた穂北の姿があった。肩を激しく上下に動かしながらも真っ赤な顔をそのままに、穂北はがしりと梅吉の襟首を掴む。



「おい、天正。休憩時間は、とっくに終わったぞ。さっさと来い!」



 いくら抵抗した所で、穂北の手から逃れられる訳がない。梅吉は、ずるずると穂北に引っ張られて退散していく。


 こうして、一人きりになった教室で、桜文は空っぽの頭をそれでも上げ、薄ぼんやりと天井にできた染みを見つめる。無意味だと分かっていながらも、しばらくの間、ただその場に居続けた。

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