11.
一人きりになったその後も、しばらくの間、桜文はいつまでも風に頬を撫でられながらも立ち尽くしていた。が、急に校舎に向かって走り出すと、その勢いを殺すことなく、とある教室の扉を開け放った。
突然の部外者の乱入に、教室中の視線が自然と桜文へと集まる。けれど、それにも関わらず、桜文は奥へと進んで行くと、一人の女生徒の腕を掴み取り、
「ごめん、ちょっと来て」
手短にそれだけ言うと、桜文は彼女の腕を引っ張って、そのまま教室から出て行く。
桜文は適当に歩き続け程良い教室を見つけると、その中へと入る。やっと立ち止まり、その女生徒の――、菊の方を振り向くが、彼女の表情は酷く歪んでいた。
「手、痛い」
「あっ、ごめん」
菊に訴えられたことにより、ようやく気が付くと桜文は掴んでいた手を離す。
だが、菊の表情が変わることはない。
「なに? 稽古中なんだけど」
「うん、ごめん。でも、すぐ終わるから。
……あのさ。今日、久し振りに一緒に帰ろうか」
「……なんで?」
「なんでって、何が?」
「なんでそんなこと言い出すの?」
「それは、一緒に帰りたいからじゃ駄目かな?」
「なんで一緒に帰りたいの?」
「え? えっと、菊さんの方こそ。なんでそんなこと訊くの? 兄妹で一緒に帰るのに、そんなに理由が必要なの?」
桜文は問いかけるが、菊は質問には一切答えようとはしない。
いつまでも閉じられたままの唇に、先に折れたのは桜文の方で。
「あっ、そうだ。帰りにアイスでも食べようか。ほら、いつものお店のジェラート屋さんで。菊さん、好きだよね。どうせならトリプルにしてさ」
「……そんなにアイスが食べたいなら、あの人と行けばいいじゃない」
「あの人って?」
「……」
「えっと、もしかして万乙さんのこと?」
桜文が訊ねるが、やはり菊は黙り込んだままで何も言わない。
桜文はどうしたものかと考え込むが、跋の悪い顔をさせたまま、
「うんとさ、万乙さんとは、もう帰れないんだ。そのー……、断っちゃったから」
その返答に、菊は一瞬息を詰まらせる。けれど、いつもと変わらぬ調子で、花弁みたいな口を開かせる。
「どうして断ったの?」
「それは……。やっぱりそういうの、性に合わないなって。今はまだ誰かと付き合うとか、そういうの、別にいいかなって。そう思って」
「本当に、それだけ?」
「うん、それだけ」
「それだけ」と、桜文は微笑を添え。口先で小さく繰り返させる。すると、菊は不意に俯く。それから背を向けると、扉に向かって足を踏み出す。
が、そんな菊の腕を桜文は咄嗟に掴み、そのまま自身の方へと引き寄せる。
腕の中に閉じ込めたまま、桜文は菊の首元へと顔を埋める。
「なんで、どうして逃げるの? ずっと俺のこと、避けてるよね」
桜文が問いかけるが、いつまで経っても空白ばかりが続く。けれど、返事の代わりとばかり、菊は、こてんと桜文の胸板に頭を預ける。
「菊さん……?」
「嘘吐き……」
「え……」
「私は、桜藺じゃない――……」
刹那、下半身に鈍い衝撃を感じ。桜文は、ずるずると頼りなしげに、その場に崩れ落ちる。
肢体を丸め、そのまま床に這い蹲るが、どうにか顔を上げさせると、菊の背中ばかりが遠くに見えた。
それに向かって手を伸ばすけど、結局は何の意味もなさない。虚しくも、時間の経過とともに遠ざかって行くばかりであった。
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