3.

 新鮮とした朝特有の空気とは裏腹、牡丹は机の上で頬杖を付いたまま、はあと辛気臭い息を吐き出す。それから窓越しに、蒼々とした空を仰ぐ。



(菊、昨日から学校に行ってるけど……。)



 本当に大丈夫だろうかと懸念を抱くが、朝ちらりと会った限りでは、いつもの彼女とたいして代わり映えしなかった。


 いや、確かに一瞬だけだが目が合ったものの、呆気なくも無視されてしまい。けれど、それにも関わらず、内心ではほっとしている自分がいて――……。


 そんなこんなで、すっかり拍子抜けしてしまい。今に至る訳であるが、牡丹はちらりと鬱を帯びた瞳を揺らす。



(でも、本当の問題は、明日だよな。桜文兄さんが退院する、明日……。

 そう言えば。他にも何か大事なことを忘れているような……、)



 気がすると思考を巡らすが、しかし。なかなか思い出すことができず。うんうんと、牡丹は頭を抱え出す。


 しかし、思い出せないものは思い出せず。まるでテストを受けている気分に似ていると、憂鬱さばかりがまとわり付き。


 その雰囲気をますます彷彿させるかの如く。始業を告げる鐘の音が、遠くの方で鳴り響いた。




✳︎




 時は過ぎ、昼休み――……。


 腹ごしらえも終え、のんびりと寛いでいる中。その空気を壊すよう、ふと一人の女生徒が萩に近寄る。



「ちょっと、足利くん。今日、日直でしょう。黒板、休み時間中にちゃんと消しておいてよね」


「そう言えば……。ったく」



 明史蕗に言われ、いくら当番と言えど、面倒なものは面倒だと。ぶつぶつと愚痴を溢しながらも萩は一気に黒板消しを動かすが、反って目の前は真っ白になってしまう。



「うげっ!? なんだよ、これ。黒板消しが真っ白じゃないか」


「そういやあ、前の授業、横ティーだったよな。あの先生、板書が多いからな」


「仕方ない、一回叩くか」



 面倒な仕事がまた増えたと、萩は気怠げに窓を開ける。二つの黒板消しをそれぞれの手にはめると、ぱんぱんと叩き合わせる。


 が、急に吹き始めた風によって、ぶわりと黒板消しから発せられた白い粉が彼の顔面に思いっ切りかかる。咽るのとほぼ同時、萩は後頭部に鈍い衝撃を覚えた。



「ちょっと、足利くん! 風向きを考えてよ。教室の中に粉が入って来ちゃったじゃない!」


「そういうことは口で言え!

 いっつう、思い切り殴りやがって。しかも、黒板消しまで落としちまったじゃないか」



 また一つ、余計な仕事が増えたと。ますます鬱蒼とした気分で萩は校舎の外に出る。



「確かこの辺りだと思ったんだが……」



 萩は、きょろきょろと注意深く辺りを見回し、問題の黒板消しを探す。だが、ふと異様な影が目の端に入った。見覚えのあるその人影に、気付けば萩は自然と近寄っていた。


 いかにも不穏な空気が醸し出されているそちらへ、萩は身を隠しながらも耳を澄ます。



「具合はもう大丈夫なのかい? 何日も休んでいたから心配したよ」


「大丈夫でなかったら学校になんて来ていません。それより、早く用件を済まして下さい。それとも、つまらない雑談をするために、わざわざ呼び出したんですか?」



 そう言って瞳を尖らせる一人の女生徒――菊の前に、彼女の行く末を遮るよう立ちはだかっている石浜は鼻先で笑う。



「つまらない、か。私にとってはこういう一時も、十分に楽しいのだが……。それとも、私でなくあの男だったら、君もお気に召してくれたのかな?」



 くすりと口元に嘲笑を乗せ、石浜は、菊の艶やかな髪を一房、手で掬い取る。けれど、その束は、するりと石浜の手の内から呆気なくも逃げ出してしまう。


 虚空ばかりが残る何をも掴めなかったその掌をじっと見つめる石浜に、菊は低い声を出して、

「……何の話ですか?」


「おや。聡明な君なら、わざわざ言わなくとも分かると思ったのだが……。それとも、私の口から言わせたいのかい? 君は相変わらず意地が悪いな。だけど、君が望むなら」



 ふっとその面に影を落とした石浜は菊の耳元に顔を寄せると、ぼそりと低い声音で囁く。


 そのまま彼女の首元に顔を埋めようとする彼の胸板を、菊は思い切り押し返して、

「……先輩って、いつも冗談が過ぎますよね」


「冗談だなんて。私はいつだって本気だ。舞台の上で、いつも君の一番近くにいたんだ。その私が、君の視線の先に気付いていないとでも思ったのかい?」



 一度は離れてしまったその距離を埋めるよう、石浜はまたもや菊へと寄っていく。再び縮んだ隔たりに、気味の悪い笑みを浮かべさせる。


 その面を維持させたまま、石浜は下唇を舌で舐める。



「本当は、口にするつもりなどなかったが……。プライドを捨ててでも、必ず君を手に入れる。君にはそれだけの価値があるんだ。言えないのなら、私からあの男に直接言ってやろうか?」


「そんな絵空事を信じるほど、あの人は馬鹿じゃない」


「それはどうかな。あの男の素直さは、君が一番良く分かっているんじゃないか? それに、学祭の時、アイツには言ってやったんだ。君が舞台の上で倒れて、保健室に運ばれて。その後、あの男と廊下で擦れ違った時にな。『いつまでそうやって、妹に固執するんだ。彼女は、お前以外の男を選んだのに。いい加減、その場所は相応しい人間に譲るべきじゃないのか』と……。

 本当に馬鹿が付くほどのお人好しだ。君のあんなにも分かりやすい嘘も見抜けないなんて。あの時のように、私からあの男に伝えてやろうか? 君が言えないのなら、私が」



「言ってやろうか?」と、菊の両手首を掴んだ石浜は、そのまま菊の肢体を校舎壁へと押し付ける。


 けれど、菊の顔色は一つとして変わることはない。薄らと、花弁に似た唇を開かせ、

「先輩って、本当にしつこいですよね」


「そういう君こそ。いつまであの男に、囚われているつもりなんだ? 一人の男に囚われ続けるなど、君に相応しくない所業だ。自分で忘れられないのなら、私が忘れさせてやる。君にとっても、決して悪い話ではないはずだ。

 ああ、そうだ。私が君を楽にしてあげよう。たとえどんな役をも立派に演じ切った所で、幕が閉じれば、君は天正菊という人間に戻るより他にないんだ。それはどんなことをしても決して変えられはしない、事実なのだから――、」



 もう一度、石浜は左手で菊の髪を掴み取る。今度はしっかりと握り締めて、ほんのりと甘い香りがする艶やかなそれへと唇を近付ける。


 すうと、思い切り息を吸い込んで。すっかりその色香に酔い痴れる石浜であったが、そんな彼の背中越しに、

「あの、済みません」

と声がかかる。

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