4.
振り向くと、そこには、
「君は、ミスター黒章……。
何の用かね? 見れば分かると思うが、できれば邪魔しないでもらいたいのだが」
「別に邪魔するつもりは。俺はただ、落してしまった黒板消しを取りに来ただけです。
っと、あった、あった。こんな所に落ちてたのか」
じとりと恨めし気に睨んで来る石浜の視線を軽くあしらい、すたすたと、萩は二人の傍らへと寄って行く。
そして、近くの地面に転がっていた黒板消しを拾い上げると、再び二人の方へと向き直る。
「おい、牡丹の妹。お前、その先輩に脅されてるのか?」
「脅すなんて。人聞きの悪い」
「あれ、違ったんですか? 俺にはそうとしか見えませんでしたが」
淡々と述べる萩と、石浜との間に、目には見えないものの、激しい火花が弾け飛び。
その余韻が色褪せない内に、突然彼等の間に、
「俺も。足利の意見に一票で」
と、飄々とした声が上がる。
「ん? その声は、与四田……!
どうしてお前がいるんだ」
「どうしてって、足利がなかなか戻って来ないから。様子を見に来てやったんじゃないか。
それより、石浜先輩。少し俺と話をしませんか?」
「話だと? 話ならここで言いたまえ」
「ここでって、俺はそれでも構いませんが。でも、本当にいいんですか? ここで言ってしまっても」
竹郎の意味深な発言に、石浜は眉を顰めさせたまま。仕方がないとばかり一つ小さな息を吐き出すと、竹郎の元へと寄って行く。
「それで、話とは何かな? 手短に頼むよ」
「分かりました。それでは、早速本題に入りますね」
にたにたと、不気味な笑みを浮かばせながら、竹郎は声を潜めさせ、そして。
「石浜先輩。水虫に良く効く薬、教えてあげましょうか?」
瞬間、石浜の表情はぴしりと硬く凍り付き。ひくひくと、酷く頬を引き攣らせる。
その崩れた面を取り繕うこともできずにいる石浜に、竹郎は更に追い打ちをかけるよう流暢にも口を動かす。
「いえ。先輩、なかなか治らないようなので。確か、中学の頃からでしたっけ? 水虫って一度罹ってしまうと、完治させるのは難しいと言いますからねー。
もしこのことが学校中に知れ渡ったら。先輩のイメージ、きっと一気に壊れちゃいますよね。先輩のファンだという女の子、結構いるのに。
明日発行予定だった我が部の新聞の一面トップは、このネタに急遽差し替えですかね」
あっけらかんとしている竹郎とは裏腹、石浜は苦虫を噛み潰したかのような顔をする。
「貴様の目的は、一体何だ……?」
「目的ですか? そうですね。先輩と同じで、俺も天正菊のファンなんですよ。やっぱり彼女のファンとしては、天正菊が一人の男のものになってしまうのを素直に応援できないんですよね」
「一体どうやってこのことを知った……、いや、証拠は……。証拠はあるのか? 信憑性のない話を人はそう簡単に信じるものか」
「証拠ですか? そうですねえ。先輩が必死の形相で足の裏に薬を塗っている、徹底的瞬間であるこの写真とかどうですか」
そう言ってスマホの画面を見せびらかす竹郎に、石浜の表情はますます壊れる。しばらくの間、石浜はじっと俯いていたが、ふと顔を上げると竹郎のことを思いっ切り睨み付ける。
「貴様、名前は……?」
「そんな。わざわざ覚えてもらわなくて結構です。なんせ俺は、しがないジャーナリストの端くれですから。
先輩がこのまま素直に引き下がってくれるなら、記事の差し替えの件は取り消しますよ。俺、そこまで鬼じゃないですもん」
その返答に、石浜は、「そうか」と一言。だが、顔にははっきりと、「覚えていろよ」と書かれている。
そのまま踵を返そうとする石浜に、竹郎はまたしても、
「先輩。薬の情報はいらないんですか?」
と声をかける。
ぴらぴらと、指の間に紙切れを挟み。竹郎が揺らしているそれを石浜は半ば無理矢理引っ手繰ると、今度こそ足早に去って行く。
それを竹郎は、にこにこと満足気な笑みを浮かばせて見送る。
「おい、与四田。お前、あの先輩になんて言ったんだ?」
「残念ながら、それは言えないなあ。プライバシーは守らないと」
「あの面倒そうな先輩を黙らせるなんて。お前って、実は結構恐かったんだな」
「そうかあ? でも、あっちから先に仕かけて来たんだ。普段はこんな真似しねえよ。
人間誰しも人には言えない秘密を一つや二つ抱えているものだが、石浜先輩にそれなりの知名度があって、格好のネタがあって。プライドの高い性格だったからこそ上手くいったが、でも、こんなんで本当に先輩が引き下がってくれるかどうかは……。
追い詰められた人間ほど、何をしでかすか分かったもんじゃないからな」
まだまだ残りそうなしこりに、竹郎は深い息を吐き出す。が、ちらりと後方に控えている菊へと視線を送る。
一方の菊は、その視線を受けてもなお平然とした様子を保ったまま、小さく口を動かす。
「先輩は、口出ししないんじゃなかったんですか?」
「本当は、そのつもりだったんだけど、でも、ジャーナリストである前に、俺も一人の男だから。やっぱり好きな女の子が、あんな卑怯な方法で言い寄られているのを黙って見ていられるほど、まだ人間ができていないんだよな」
けらけらと軽い笑声を上げている竹郎に、菊はじとりと目を細める。
「やっぱり胡散臭い……」
と、あからさまに怪訝な表情をさせ、小声で呟く。
しかし、それだけ言うと、菊も二人に背を向け。一人、校舎に向かって歩き出す。
「なんだよ、アイツ。礼の一つくらい、言えっての。本当に可愛げのない女だ」
「まあ、まあ。それでこそ天正菊だよ」
「お前って、結構人間ができてるよな」
「そうかあ? まあ、足利よりはできてるかもな」
にたりと得意気な笑みを浮かばせる竹郎に、萩は、「うるせえ」と一言。軽く彼の腹の辺りを腕で小突く。
(それにしても、極度のブラコンかとも思ったが。あの様子だと、そんな生温いものでは……。)
「ないんだろうな」と、次第に小さくなっていく華奢な背に向け。隣でわざとらしく腹を抱えている竹郎を余所に、萩はその場に立ち尽くしたまま、ぽつりと口先で呟いた。
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