11.

 閑散とした、とある公園にて。


 ブランコに腰かけている一人の少女を前にして、大柄な青年は一つ乾いた息を吐き出させる。



「道場、辞めちゃうんだって? 師範から聞いたよ」


「引き取られる先が決まったから。劇団も辞めるから、もう習う意味もないし」



 そう淡々と説明する菊に、桜文はただ一言。「そっか……」と、少し寂しげな笑みを浮かべさせる。


 その面をそのままに、桜文は小さな音を上げると、ズボンのポケットの中へと手を突っ込み、

「これ、あげる。よかったら餞別に」


「これって、でも。それに、こんなボロボロなの……」



 別にいらないと、菊の顔に、はっきりと書かれている。だけど、桜文にとっては予想外の反応だったのだろう。ぶらんと宙に浮かばせているそれを、しみじみと眺めながら、

「確かに見た目はボロボロかもしれないけど、でも、なかなか可愛いと思うんだけどなあ、このクマ」


「全然可愛くない」


「そうかなあ。ううん、桜藺は『可愛い』って、言ってたんだけど。

 それに、このキーホルダーは、ただのキーホルダーじゃないんだよ。そうだなあ、お守りみたいなものかな」


「お守り?」


「うん。俺、これを持つようになってから、一度も試合で負けたことないんだ」



 へらりと目尻を下げ、得意気に言う桜文だが、しかし。一方の菊は相変わらず、胡散臭いと目で訴える。


 だけど、問題の桜文は、それには一切気付かない。へらへらと締まりのない面をさせている。



「だから、さ。そのキーホルダーを持ってるだけで、強くなれるよ。ずっと持ってた俺が保証するんだ、嘘じゃないよ」


「……」


「もしかして、疑ってる? うーん、本当なんだけどなあ」



 猜疑の瞳を浮かばせ続ける菊に、桜文はぽりぽりと頬を掻く。お手上げとばかり、へらりと太い眉を動かす。


 その面を前に、菊は一寸考え込むと、ゆっくりと薄桃色の唇を開かせていき、そして。すっ……と、手だけを桜文の方に向けて出す。



「そんなに言うなら、もらってあげる」



 風の音に掻き消されてしまいそうなほど、か細く頼りない音ではあったものの。彼女の精一杯の一言を、桜文は確かに耳に留めさせる。力強く頷くと、桜文は菊の白い手の上にキーホルダーを乗せた。


 小さな掌で、クマのマスコットはころんと小さく揺れて倒れる。しばらくの間、横になっているそのクマをじっと見つめる菊であったが、そっと両手で包み込みと胸の前に持っていく。


 それから、ぎゅっと確かめるみたいに。小さなその温もりを、菊はただ強く握り締めた。




✳︎




 名もない秋の、麗かなとある日――……。



「もう、梅吉ってば! そんな恰好で歩き回らないでって、いつも言ってるでしょう!」


「なんだよ。別にいいじゃねえかよ、このくらい。それに俺、人に見られて恥ずかしい体してないもーん」



 一つとして反省の色を見せない梅吉に、「そういう問題じゃなくて……」と。藤助は、呆れ顔をする。そして、手近にあったシャツを梅吉に押し付ける。



「ほら、早く服を着てよ。パンツ一枚でみっともない。今日は新しい子が来るんだから。それに、芒が真似したらどうするんだよ」


「なに、芒は賢いんだ。何を好んで、あんな馬鹿の真似なんかするものか」


「おい、道松。馬鹿とはなんだ、馬鹿とは。

 芒はカッコイイお兄ちゃんのことが好きだよなー?」



 梅吉は、ひょいと芒を抱き上げると、半ば強制に同意の音を促す。


 きゃっきゃ、きゃっきゃと甲高い音を上げる芒をあやしていた梅吉だが、ふと口を開かせ、

「それにしても。まだいたんだな、親父が手を出した女が」

と呟く。


「本当、菖蒲で最後だと思ったのに。ますます我が家は火の車だよ。

 やっぱり部活は断って、バイトしようかなあ」


「おい、おい。これから新入りを迎えるっていうのに、辛気臭いなあ。まあ、なんとかなるんじゃねえの? 一人くらい増えたって。

 それより、新しく来る子の名前、なんて言うんだっけ?」


「えっとねえ。確か、相模……」



 藤助は朧気な記憶を思い返す。が、最後まで言い切る前に、ピンポーンと、甲高い音が家内中へと響き渡る。



「おっ、来たみたいだな。どれどれ……。

 よう、待ってたぞ……って、へえ。女の子とは聞いてたが、なかなか美人じゃないか。うん、うん。なんせウチで、初めての女の子だもんな。野郎ばかりでいい加減、一輪くらい華があってもいいもんだとは思っていたが」


「ちょっと、梅吉ってば。いくら女の子でも、半分は血の繋がってる妹なんだから。間違っても手を出したりしないでよ」


「へい、へい。それくらい分かってるって。大体、自分の妹に手を出さないといけないほど、女の子には困ってませんよーだ」



 べーっと真っ赤な舌を突き出す梅吉に、藤助はじとりと目を細めさせる。いま一つ信用できないと、猜疑の瞳が緩むことはない。


 けれど、その視線を軽く躱すと、梅吉は目の前の少女をリビングへと連れて行く。落ち着いた所で、梅吉はぽんと一つ手を叩いた。



「そんじゃあ、恒例の自己紹介タイムといくかー……って、ちょっと待った。一人足りないな。

 ったく、アイツは何をやっているんだよ」



 梅吉は気怠げにリビングから出ると、「おーい」と、二階に向かって大声を張り上げる。すると、ばたばたと忙しない音が後へと続く。



「何をやってるんだよ、早く来いよな。お前待ちなんだからさー」


「早くって、何かあったっけ?」


「なんだよ。まさか、忘れてたのか? 今日は妹が来るって言っただろうが」


「妹? 妹って、えっと……。なに、それ。初めて聞いたんだけど」


「あれ、言ってなかったっけ? 全員に知らせたと思ってたんだが。

 ううん、人数が多いのも困りもんだよなー」



 梅吉は、けらけらと軽い笑声を上げる一方。「早く来い」と、相変わらず急かし続ける。



「へえ、異母妹が。まだいたんだ」


「本当、我が親父ながら、よくやるよなー。

 ほら、桜文。あの子が今日から妹になる……。えっと、名前なんだっけ?」


「ん? あれ、菊さん……?」


「そう、そう。菊だよ、菊……って、」



「どうしてお前が知ってるんだ?」と、首を傾げさせる梅吉を余所に。桜文の、丸くさせた目はそのままだ。


 一方の菊も、呆然と立ち尽くしたまま。ただただ大きな瞳を、一層と開かせるばかりであり……。


 時間の経過と共に、彼女の肩にかけていた鞄が自然とずり落ち。ごとんと鈍い音が、その場に強く鳴り響いた。

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