10.

 日は移り、空手の道場にて――。


 その日の稽古が終わり、人気のない室内に、辛気臭い音が響き渡る。



「ふうん、子猫ねえ」


「はい。今日稽古に来てた子達には訊いたんですけど、良い返事はもらえなくて」


「ウチは、カミさんが猫アレルギーで飼えないんだよなあ。

 あっ、そうだ。タバコ屋の婆さんなら、飼ってくれるかもしれないぞ。あそこの婆さん、無類の猫好きでさ。今も確か三匹くらいいたと思うが、三匹も四匹もたいして変わらんだろう」


「タバコ屋って、直ぐそこのですか? そうですか」



 訊いてみますと、思いも寄らなかった収穫に桜文は胸を膨らませる。この案件もどうにか片付きそうだと、桜文は安堵の音を漏らすのと入れ替わりで、またしても口を開く。



「そう言えば、今日は菊さんが来ていませんでしたが。珍しいですね、彼女が休むなんて。どうかしたんですか?」


「ああ。それがなあ」



 菊の名を耳にした途端、師範は苦い顔をさせる。



「え、菊さんのお母さんが……?」


「そうなんだよ。数日前に突然電話がかかって来てな。いやあ、あまりにも急なことだったから、俺もびっくりしたよ。

 あんな綺麗な人がなあ。美人薄命とは言うけど、世の中、何が起こるか分からんものだな」



 しみじみと語り出す師範の声を遠くに聞きながら。桜文は、気付けば外に飛び出していた。


 とある扉を前に何度も中に向かって呼びかけるが、ちっとも応答はない。焦る気持ちをそのままに再びその場から走り出すと、真っ暗闇の中へと飛び込んで。手当たり次第の場所を回り、声を張り上げる。


 乱れる息を整える暇なく近場の公園に差しかかった所で、不審な影が桜文の瞳に留まる。目を凝らしてよく見ると、それは四、五人の男の姿であった。彼等は何かを取り囲んでいたが、不意にぞろぞろと、揃って茂みの方に移動する。


 しかし、その群れの中に、ずっと探し求めていた姿を見い出すと、桜文は勢いを殺すことなくそちらへと飛び込む。一斉にその場の視線が集まるのを余所に、桜文の瞳に映ったのは、普段は隠れて見えない、彼女の仄かな月光を受けて輝きを増した色白の肌であった。


 その光景に桜文は一瞬躊躇してしまうが、意識を取り戻すと即座に行動に移す。


 数分後――……。


 肩を上下に激しく揺らし、一人立っている桜文に、座り込んでいる少女は――、菊は、ガラス玉みたいな瞳を動かす。肌蹴た胸元を別段隠すことなく、ただじっと桜文を見つめる。



「なんで。どうして余計なことばかりするの……」


「なんでって、だって……」


「アンタには関係ないじゃない。私がどうなろうと、アンタにはなんの関係もないじゃない。なのに、そんなに必死になって。本当、バカじゃないの」



 菊の瞳は月の光を帯び、一層と冷やかさが増していく。


 その冷淡さに思わず呑み込まれそうになるものの、桜文は力任せに拳を強く握り締め、そして。


 薄らと、その唇を開かせていき――。



「だったら……。だったら、どうしていつもみたいに、抵抗しなかったの? アイツ等にされるがままで、らしくもない」



「らしくない」と、もう一度。よりはっきりとした音で、桜文は告げる。


 すると、彼女の肩は微弱ながらも震え出す。



「……な……に……」


「え……」


「私らしいって、なに? どうしたらいいの……?」


「菊さん……?」


「分からないの……。どうしたらいいのか、分からないの。どんな服を着ればいいのか、何を食べればいいのか。何をすればいいのか、全然分からないの。分からない……」



「分からない」と、そればかり。菊は震える喉奥で繰り返させる。


 刹那、彼女の大きな瞳から、ぽたりと大きな雫が一粒零れ落ちる。それはつうと艶やかな頬の上を滑り、一本の線を描くと闇夜に溶けて消える。見えなくなってしまったが、形跡だけは残り続ける。


 小さな嗚咽ばかりが耳を掠める中、桜文はブレザーを脱ぐと、それを彼女の小刻みに震えている肩へとかける。



「そのままで、いいよ……。そのままで、いいと思う。大丈夫。少しずつ自分のやりたいことを、これから見つけていけばいいんだよ。

 菊さんは自分のこと、人形みたいだって。前にそう言ってたけど、でも、俺はそんな風に感じたことは一度もないよ。

 初めて会ったあの日、怪我した菊さんを医者に連れて行った時。菊さん、あんなに嫌がって暴れていたじゃないか。お人形だったら、普通、そんなことできないよ」



 あの時の菊の暴れ振りを思い出し、桜文はつい小さく苦笑する。


 へらりと浮かばせた微笑をそのままに、

「そうだよ。菊さんの言う通り、俺のしてることは全部お節介だ。ただの自己満足で、独り善がりで。

 ……きっと、菊さんが桜藺に似てたから。だからかなあ、なんだか放っておけなくてさ。あっ。でも、顔は全然似てないよ。菊さん、美人だし。うん、顔だけじゃなく性格も。

 だけど、桜藺もさ、普段は素直なのに、いじめられた時とか風邪引いた時とか。そういう時こそ言ってほしいのに、いつも強がって黙っていてさ。だから。

 言わなくていいよ。上手く言えないなら、それでもいい。……それでも、俺が守るから――……」



 こてんと胸元へと寄りかかって来た圧力に、桜文は、それ以上は何も言わない。ただ菊の頭に、そっと手を添えさせる。


 淡い月明かりの下、その音が聞こえなくなるまで。桜文はいつまでも、嗚咽を漏らしている菊のことを腕の中へと閉じ込め続けた。

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