7.
「所で、あなたは一体どなたかしら。ウチの菊ちゃんに、一体何をしているの?」
「何って……」
桜文は状況を説明しようとした。が、突如、一筋の風が彼の頬を掠めた。続いて、どかっ――! と鈍い音が、その場に強く鳴り響く。
音のした方に視線を向けると、大きな塊が顔のすぐ傍にあった。それは壁にぶつかった衝撃を受けながら、ぽろりと床に向かって落ちていく。
足元に転がったその塊をよく見ると、それは先程まで母親が持っていただろう鞄であった。
「菊ちゃんとは、一体どういう関係なの?」
にっこりと満面の……、いや、冷酷な笑みを前に。桜文の額からは、だらりと一筋の汗が流れ落ちる。
(こ……、殺されるっ……!)
この母にしてこの娘とは、まさにこのことだと。直感的に生死を悟りながら。とにかく身の潔白を証明しようと、桜文は両手を高く挙げながらも懸命に口を動かす。
すると、彼女は理解してくれたのか。
「あら、空手の道場の方だったの? ごめんなさいね、つい早とちりしちゃって。それに、わざわざ送ってくださったなんて。
でも、布団なんか敷いてあるでしょう? だから、ちょっとびっくりしちゃって。もし菊ちゃんが傷物にでもされていたらと思うと、いてもたってもいられなくて……」
「そんなことないわよね?」と、顔を近付けて来る母親に、桜文は口を堅く結ばせたまま。こくこくと、何度も強く頷いてみせる。
そんな桜文の態度に、ようやく確信を得たのか。母親の肢体から放たれていた殺気は消え去る。それでも桜文は、出されたお茶をぴっちりと正座して受け取った。
湯気の立つそれを一口呑み、ほっと安堵の息を吐き出させると、菊の母親はふわりと柔和な笑みを浮かばせる。
「お茶、お口に合うかしら?」
「あっ、はい。とってもおいしいです」
「それは良かった。所で、菊ちゃんのことなんだけど。道場での様子はどうかしら?」
「様子ですか? そうですね、いつも真面目に稽古に取り組んでますよ。師範も菊さんのこと、筋が良いと褒めていて。本格的に教えたいと言っていたくらいで」
「ふふっ、それなら良かったわ。今の道場は続いているから問題はないと思ってたけど、やっぱり心配で。この前通ってた所では嫌な思いをしたみたいだし、それに、菊ちゃんには恋人なんてまだ早いと思うの。
そう、そう。私が将来、菊ちゃんに相応しい相手を見繕ってあげるんだから。そういう訳だから、あなたも菊ちゃんに悪い虫が付かないよう、見張ってあげてくれないかしら?」
ぎゅっと桜文の手を握り締めながら。そう頼み込む彼女に、一方の桜文はと言えば。
「はあ……」
と、気の抜けた返事ばかりが漏れる。本人の意思とは反対に、それが合意の意味と取られてしまったのだろう。「よろしくね」と、母親は更に営業スマイルを添える。
すっかりその気である彼女を余所に、桜文は視線を襖の方へと向けさせる。
「あの、菊さんなんですけど。本当に大丈夫なんですか? やっぱり病院に連れて行った方が良いと思うんですけど」
「ううん、そうねえ。ちゃんとお薬は飲んだって言ってたから、しばらくすれば良くなると思うわ。菊ちゃん、偶にああなっちゃうのよね」
母親に言われ、これ以上は口を出せないと判断すると、桜文はそのまま家を後にした。薄暗闇の中、等間隔に立てられている街灯を頼りに進んで行くが、ふと後ろを振り返る。
(菊さんのお母さん、悪い人ではなさそうだけど。今だって、菊さんのことを心配してたし。
でも、確かに彼女の言う通り、)
「人形遊び、か……」
ぽつりと口先で呟くが、その音はすぐに跡形もなく消え去る。
もう一度、アパートの方を見つめてから。桜文は再び家路を目指し、歩き出した。
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