6.
人気のない、空手道場の裏手にて――……。
「最中があるんだけど、食べ……」
「る?」と、最後まで言い切る前に、菊の口から、
「いりません」
と、きっぱりとした返答が紡がれる。桜文は、へにょりと太い眉を下げる。
そして、仕方がないとばかり。一人もぐもぐと口を大きく動かして、行き場を失ってしまったそれを次々と食べていると、彼のその様子に菊はじとりと不快そうな表情を浮かばせる。
「あの。毎回、毎回、何度も同じことを言わせないでください」
「うーん、でもさ。もしかしたら、食べたくなる時もあるかなって。そう思って。ほら、訊くだけならタダだしさ」
「そんな気分になる時は、これからも一切ありません。それから、気安く話しかけないでください」
「えっ、どうして?」
「アンタとは話したくないから」
それ以外に何があるんだとばかり、はっきりと告げられ、桜文は、跋の悪い顔をする。
が、ぽりぽりと、小さく頬を掻きながら。遠慮深げに、それでも懲りることなく口を開く。
「あのさ、前から気になってたんだけど。どうして休憩時間になると、いつもここに来るの?」
「……アンタには関係ないじゃない」
「そうかもしれないけど、でも、みんなと仲良くしないの? どうせならみんなと話したり、一緒に帰ったりすればいいのに。せっかく一緒に空手を習う仲間なんだ。
みんな良いやつばかりだよ。歳だって近いんだ、きっと仲良くなれると思うけどなあ」
どうだろうと桜文は提案するが、菊の顔色が変わることはない。
菊は、ぽつりと口先を動かして、
「誰とも慣れ合う気なんかない」
それだけ溢すと、ふいと一つにまとめられた栗色の艶やかな髪を翻し、整った歩調で、すたすたとその場を後にした。
暗転。
日はすっかり暮れ落ち。
桜文は石段を下り、視界の開けた道幅の広い道路へと出る。後は家に帰るだけだと歩を進めていると、ふと異様な影が目に入った。
一寸考えた末、桜文は首を傾げさせたまま、それへと近付いて行く。
「菊さん、どうしたの。具合悪いの?」
地面に座り込んでいる背中に向け、声をかけるが返答はない。桜文は更に首を傾げさせて菊の顔を覗き込むと、歪んだ表情がそこにはあった。
「大丈夫? 救急車、呼ぶ?」
そう訊ねるが、やはり菊は首を小さく横に振るだけだ。いつもの強気な姿はどこにも見受けられない。
迷った末、桜文は菊のことを抱え上げるが、暴れる気力もないのか。以前とは異なり、されるがままだ。
(とにかく家に。確かこの道を右に曲がって、それから突き当たりで今度は左に……。)
数日前の記憶を頼りに、桜文が進んで行くと、見覚えのある小さなアパートが現れた。
「本当に大丈夫? 病院に行った方がいいんじゃない、連れて行こうか?」
家の中へと入り、布団に横たわる菊にいくら尋ねても。微弱にも首を振るばかりで、次第に菊は掛け布団をすっぽりと頭から被って丸くなる。
そんな菊の様子に、桜文の中では不安しか残らない。どうしたものかと、がしがしと乱暴に頭を掻いていると、不意に玄関先から、がちゃんと甲高い音が聞こえてきた。
「ただいま、菊ちゃん。あら、お友達が来てるの? 珍しいわね、菊ちゃんが人を連れて来るなんて」
軽い足取りに続き、一つの人影が部屋の中へと入って来た。桜文の瞳と彼女とのそれが、宙の一点で混じり合う。
(菊さんに、そっくり……。)
大人びた顔立ちに、柔らかい雰囲気ではあるが、キラキラと光る目元や整った鼻筋は、彼女の面影が濃い。
すっかりその女性に釘付けになってしまっていた桜文であったが、ゆっくりと乾いた唇を動かし、
「えっと、菊さんのお姉さんですか?」
「あら、やだ。私は菊ちゃんの母です」
「母って……」
深紅色の唇を、にゅっと上げ。にこにことそう返す彼女の言葉を、桜文は脳内で繰り返させる。
けれど。
(母ってことは、母ってことは……。この人が、菊さんのお母さん――!??)
桜文は目を見開かせたまま、思わず菊と彼女とを交互に眺める。だが、とても中学生の子供がいるとは信じ難く、なかなか上手く呑み込ませることができない。
でれでれと締まりのない顔をさせていた師範の言葉を思い返していると、ふと菊の母親はにこりと微笑んで見せた。
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