5.
「あのさ、これ。この間、返してくれた治療費だけど。やっぱりいいよ、俺が無理矢理連れて行ったんだ。だから、これは大事に取っておきなよ」
そう言って鞄の中から取り出した封筒を菊の前に出すが、菊はそれを受け取ろうとはしない。いつまで経っても、その封筒は宙の一点で留まっている。
無意味にも、強かな風ばかりが流れ。そんな中、菊はようやく口の端を上げさせていく。
「……別にお金がない訳じゃない。本当なら、それなりの生活くらい簡単に送れる。でも、お母さんが余計なことばかりにお金を使うから」
「余計なこと?」
「ただでさえ舞台に上がるだけでも、衣装代やらでお金がかかるのに。演技の幅を広げるためとか言って色んなことを習わせるし、挙げ句にはいりもしない高い服とかアクセサリーをたくさん買って来るから」
「えっと、それは菊さんのために……。色々してあげたいんだよ、きっと」
「違う……」
「え?」
「お母さんは私のこと、人形だと思ってる。あの人がしていることは、ただの人形遊び。私に自分を投影させて自分ができなかったことを私にさせることで、まるで自分がしたつもりになって。それで勝手に満足してる、可哀想な人よ」
「可哀相な人よ――」と、より鮮明な声で。繰り返させると、菊は宙に浮いたままの桜文の手を払い除ける。
そして、鋭い瞳で桜文のことを睨み付ける。
「今の道場に通う前、別の道場に通ってた。母の手前、受講料なんて払わなくていいと言ってた癖に、月謝が払えないなら体で返せって。そう言われて、汚い手でベタベタ触られた。だからその講師のことをボコボコにしてやったから、前の所にはいられなくなった」
「ボコボコって……」
「今までだって、こういうことは何度もあった。別に初めてでもなんでもない。だから。
アンタのことだってちっとも信用できないし、私は騙されたりしない――!」
そう強く言い放つと同時、菊の感情に呼応するよう強かな風が吹き荒れた。刹那、ひらりと彼女のスカートが、その作用により軽く浮き上がる。
しばらくの沈黙の後、菊の肩は微弱にも震え出し……。
「えっと、あの、その……」
おろおろと、すっかり挙動不審に。右往左往することしかできない桜文を余所に、菊は一気に彼との距離を詰めていき、そして。
右手を大きく振り上げて、
「変態――!!」
甲高い音と共に、ぱんっ――! と乾いた音が、辺り一帯に響き渡った。
✳︎
「桜文お兄ちゃん、どうしたの? ほっぺ、真っ赤だよー?」
へにょりと太い眉を下げ、無理矢理笑みを取り繕う桜文を、芒は心配げな顔で覗き込み。掌を使って、優しく彼の右頬を擦る。
そんな二人のやり取りに、台所にいた藤助も気付き、
「あっ、本当だ。随分と腫れてるね。どうしたの? どこかにぶつけたの」
「うん、そんな所かな」
「ふうん。なんだか最近、怪我してばかりじゃない?」
「そうかなあ?」
「そうだよ。この間だって、引っ掻き傷を作ってきたじゃないか。本当、何をやっているんだか」
半ば呆れ気味の藤助から芒は氷の詰められた袋を受け取ると、
「僕が冷やしてあげるね」
と、問題の箇所へと宛がえる。
じんわりと、冷ややかな熱が肌へと滲みていく中。徐々に氷は溶けていき。袋の中でぶつかり合うと、からんと甲高い音を鳴らした。
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