2.
稽古も終わり、生徒の姿が見当たらなくなってから、菊は一人ようやく道場を後にする。
ゆっくりとした足取りで石段を下って行くが、その先の光景に自然と眉間に皺を寄せていく。
「まだなんか用ですか?」
と、たくさんの棘を添えて、菊は視線の先の桜文に訊ねる。
「うん、用というようなことでもないんだけど。
あのさ。足、怪我したんじゃない?」
菊の左足を指差す桜文から、彼女はふいと顔を反らす。
「……別に。軽く捻っただけ」
「たとえ軽くても、ちゃんと治さないと癖になるよ」
「別に私が怪我しようと、アンタには関係ないじゃない」
煙たそうに、菊はきっぱりと告げると、じろりと桜文のことを睨み付ける。けれど、あまり効果はなかったのか。桜文は平然とした顔で、引き続き菊の元へと寄って行く。
「ちょっとごめんね」
手短にそれだけ言うと、桜文はひょいと菊のことを抱き上げた。抱き上げるがその瞬間、菊はじたばたと手足を大きく振って暴れ出す。
「ちょっと、いきなり何するのよ!」
「何って、すぐ近くに接骨院があるから。ちゃんとそこで診てもらおうと思って」
「これくらい平気だって言ってるでしょう! 病院なんていくほどじゃないわよ」
「駄目だよ、自己判断では。こういうのは、ちゃんと専門家に診てもらわないと」
「いいから早く離しなさいよ。大体、連れて行かれたって、お金なんて払えないわよ!
ただでさえあの道場だって、どうせお母さんがいつもみたいに色目を使って、ほとんどタダで通わせてもらってるくらいなのに」
「だったら、俺が代わりに払ってあげるから」
「なんでアンタの世話にならないといけないのよ!? この、変態っ! 今すぐ離さないと、警察呼ぶわよ!」
甲高い音を上げ続ける彼女に、桜文はへにょりと太い眉を下げる。
本当に警察を呼ばれたらどうしようと、彼女のこの剣幕ではやりかねないだろうと。
その恐怖に怯えながらも、桜文は菊の必死の攻撃を避けつつ。自分のためにも、病院への道を急いだ。
✳︎
とっぷりと日は暮れ、芳しい香りが漂う夕食時――……。
「ただいまー」
と、間延びした声が家内中に響き、リビングの扉が外側から開かれる。
その隙間から、ひょいと大きな肢体が入り込み。その声に続けられるよう、今度は台所から顔が飛び出す。
「おかえり、桜文。今日はいつもより遅かったね」
「うん。ちょっと色々あってさ」
へにょりと太い眉を下げさせる桜文に、藤助は台所で手を動かしたまま、
「ふうん、色々ねえ。確か前に通っていた空手道場に行って来たんだっけ?」
「ああ。師範がぎっくり腰になっちゃって、思うように動けないから。それでしばらく、代わりを務めることになってさ」
「へえ、そうなんだ」
「それは大変そうだね」と、味噌汁の味見をしながら。藤助はそう言うが、半ば他人事だ。
引き続き鼻歌混じりで野菜を切り刻んでいる藤助のその音を掻き消すよう、不意に外側から扉が開いた。
「おーい、藤助。飯はまだかー? 腹減ったんだけど……って、桜文、どうしたんだよ? その頬の傷は。まさか、女の子にでも引っ掻かれたのか? なーんて、お前に限ってそんな訳ないか」
姿を見せるなり、梅吉はけらけらと軽く笑声を上げる。
その音によって気付いたのか、藤助は野菜から顔を上げ、
「えっ? あっ、本当だ。どうしたの、猫にでも引っ掻かれたの?」
「うーん、まあ。そんな所かな?」
「そっか。でも、珍しいね。猫にはいつも懐かれてるのに。余程気が強い猫だったんだね」
「そうだなあ」
(気が強い、か……。)
果たして、その一言で言い表せるようなものであっただろうかと。つい数十分前の出来事を桜文は思い返す。
ただでさえ暴れ捲る菊を接骨院まで連れて行くのに苦労したと言うに、その後も大変だったなと。警察に通報されなくて、本当に良かったと。
菊の家がそう遠くなかったことがまた救いであり、別段信仰心が厚いという訳ではないけれど。今日ばかりは単純にも、神様に感謝せずにはいられない。
それにしても。
(見かけとは反対に、随分と気性の激しい子だったよな。)
少し触れただけでも消えてしまいそうなほど、か細い輪郭に加え。初めて会話した時に耳にした、まるで周りの空気に溶け込んでしまいそうなほど淡く、頼りなげながらも透き通った声とは裏腹。気丈で気高く、高踏でいながら、やはりどこか危なげで――……。
美しい花には棘があるとは言うけれど、まさにその通りだと。藤助に手当されながらも、桜文は一人苦笑いばかりを溢した。
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