第23戦:三男と異母妹の昔話の件について

1.

 遡ること、二年前――……。


 市内に位置する、とある空手道場にて。


 若々とした活気の良い声が壁を貫通し、外一帯にまで響き渡る中。その音に掻き消されそうになりながらも、がらりと甲高い音が奏でられる。



「あの、ごめんください」


「ん? その声は……。おお、桜文か。久し振りだな。しばらく見ない間に、また一段と背が伸びたな。ここに来るのは、中学を卒業して以来になるか。

 それで、今日は一体どうしたんだ?」


「はい、師範がぎっくり腰になったと聞いて。それで、何か手伝えればと思って」



 そう返す桜文に、師範は軽く掌で腰を擦りながら、

「そうか、それは助かるよ。なにしろ動くだけでも一苦労でな。人間、歳には敵わんよ」


「そんな。まだまだこれからじゃないですか。それより、どうかしたんですか? みんな、なんだか様子が変だけど」



 桜文はちらりと稽古に励んでいる生徒達へと視線を向けるが、彼等の頬は心なしか、揃ってぽうっ……と紅潮している。そわそわと落ち着かない様子に、桜文はこてんと首を傾げさせる。


 すると、師範はくすりと笑みを溢し、

「それは、あの子が原因だよ」

と、とある箇所を指差した。


 師範の指差す方に視線を向けると、そこには一人の少女の姿があった。辺りに芳しい花を散らしながらも周囲と同様、力強く手足を突き出している。


 彼女が動く度に、頭の高い位置で一つに結ばれた色素の薄い栗色の髪が大きく左右に揺れ動く。馬の尻尾に似た髪の束を桜文は目で追いながらも、周りの空気に全く溶け込めていないその存在に違和感を覚える。



「へえ、女の子が入ったんですか。珍しいですね」


「それが正式に入った訳ではなく、一時的なんだよ」


「一時的ですか?」


「ああ。なんでも芝居のためとかで。演技の幅を広げるために、しばらく通わせてくれとあの子の母親に頼まれたんだよ。

 いやあ、あの子もあの年頃にしては大人っぽくて美人だが、お袋さんもえらい別嬪でさ。あんな美人に頼まれたら、嫌とは言えないねえ」


「ふうん、芝居か」


「けどなあ。彼女、なかなか筋が良くて。芝居のためだけなんて、もったいないんだよなあ。将来、良い選手になると思うのに」



 師範は残念そうに肩を落とす。が、すぐにも自身で気を持ち直させる。



「と言う訳だから、みんなの喝を入れ直してやってくれ。まあ、アイツ等も、ただでさえ年頃だからなあ。それがあんな格別に綺麗な子が一緒だと、へらへらするなと言う方が無理な話かもしれないが」



 自分のことは、すっかり棚に上げたまま。師範はばしばしと、桜文の背中を思い切り叩いた。




 暗転。




 休憩時間になり、桜文は滴る汗をタオルで拭い取りながら道場の裏手へと回る。すると、そこには既に先客がいて、

「あ……」

と、小さい音ながらも一人の少女を前にして、桜文の口から思わず驚嘆の音が漏れる。


 止めた足と同様、どうしようかと、桜文は一瞬迷ったが、その場に座り込んだ。



「ここ、いいよね。俺もこの道場に通っていた時は、いつもここで休んでいてさ。風通しが良くて、お気に入りの場所なんだ。

 どら焼きがあるんだけど、食べる?」



 桜文は彼女の方に向け、どら焼きを差し出すが、

「……いりません」

 ただ一言そう述べると、彼女はぷいと横を向いた。


 一方の桜文は、持て余してしまったそれをどうしたものかと。じっとどら焼きを見つめていたが、結局は口元へと運び。がぶりと一口、大きな口で噛り付いた。



「このどら焼き、すごくおいしいんだけどなあ。

 もしかして、どら焼き嫌いだった?」


「どら焼きが嫌いなんじゃなくて、人からものをもらうのが嫌い」


「えっ、なんで?」


「どうせ後で恩を返せって言われるから」



 じとりと半ば睨み付けながらきっぱりと述べる彼女に、桜文はへにょりと太い眉を下げる。


 情けない面をそのままに、

「そんなつもりはないんだけどなあ」

 大口でどら焼きに噛り付きながら、「おいしいのになあ」と、残念そうに繰り返す。


 桜文は、頬に付いた餡子を親指の腹で拭い取りながらも、

「名前、なんていうの?」


「……なんで教えないといけないんですか?」


「なんでって、呼ぶ時に困るから?

 しばらく師範の代わりに俺が教えることになったんだ。だから名前を知らないと、色々と不便だと思うんだよね」



 彼女は桜文のことをやはり胡散臭そうに。猜疑ばかりが込められた瞳で見つめ……、いや、軽く睨みながらも一寸考えた後、花弁に似た薄桃色の唇を小さく動かし、

「……相模菊」


「そっか。菊さんって言うのか」



 ぽつりと溢す彼女の声を桜文は拾い上げると、菊は先程以上に眉をつり上げた。



「馴れ馴れしく下の名前で呼ばないで下さい」


「えっ、なんで?」


「嫌いだから」


「嫌いって、“菊”って名前が?」



 桜文が訊ねると、彼女はこくりと小さく頷いてみせる。


 あまりの彼女の潔さに、桜文はぽりぽりと頬を掻き。



「どうして嫌いなの? 綺麗な名前だと思うけど……」


「菊の花なんて、縁起が悪いだけだもの」


「縁起が悪い? ああ……。確かに葬式やお墓のお供えに、よく使われる花だもんね。

 でも、菊の花って、不老長寿や無病息災を願う花で、決して縁起が悪い訳ではないと思うよ。それに、綺麗だから。だからだと思うよ、そういうのに使われるのって。

 だって、お供えするなら、やっぱり綺麗で長持ちする花の方が良いと思わない?」


「……よく分からない。花なんてお供えしたことないから」


「そっか」



 桜文は新しく袋を開け、もう一度、試しに菊の方へそのどら焼きを差し出すが、やはり彼女が受け取ることはない。仕方がないとばかり、桜文はまたもや自分で食べる。


 数口で、あっという間に平らげ。ごくんと最後の一口を呑み込ませると、餡子独特の甘さの残る口内を惜しむ一方で、またもや桜文は口を開く。



「空手を習ってるの、お芝居のためなんだって? 俺、芝居なんて観たことないからよく分からないけど、役者さんなんてすごいね」


「別に。すごくもなんともありませんよ。親に言われてやってるだけだし」



 言い放つようにそう言うと、菊は踵を返し。すたすたと、道場の方に向かって一人歩き出す。


 残された桜文は、跋の悪そうな表情を浮かばせ。ただ華奢なその背中を見送ることしかできなかった。

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