5.
「天羽さん? どうしたんですか、そんなに慌てて」
「いや、その。電話を忘れてしまったようで」
天羽は激しく肩を上下に揺らし、乱れた息をそのままに、ただ藤助の手元を見つめる。
目の中に留まった映像に、天羽は、ゆっくりと口角を上げていく。
「藤助、電話に出たのか?」
「えっ、はい。非通知だったので、天羽さんからかと思って。でも、間違い電話と言うか、詐欺の電話でした」
「詐欺の電話だって?」
「そうなんですよ。最近の詐欺は随分と巧妙というか、馴れ馴れしいというか。自分のペースに持ち込んで、いや、詐欺と言うよりも、なんだか女の人を口説いていたみたいな……。
とにかく、『また』と言っていたので、またかかってくるかもしれません。なので、天羽さんも気を付けて下さいね」
「あ、ああ、」
「そうだな」と、半ば間の抜けた返事をしながら。天羽は藤助から電話を受け取ると、来た時みたく慌ただしく家を出て行く。
その姿を見送ると、藤助はぺたんとその場に座り込む。
(どうしよう……。天羽さん、俺が勝手に携帯の中を覗こうとしたって。そう思ってるよな……。)
今頃になって、急に全身から汗が吹き出し。徐々に冷えていく体は、微弱ながらも震え出す。
後悔しても、もう遅い。今となっては、どうすることもできない。
空っぽになった頭の中には、なぜか先程の名も知らない男の歌が慰めとばかり、いつまでも残り続け――……。
「えっと、なんだっけ。見ても又、逢ふ夜まれなる夢の中に……。夢の中に、えっと……」
「『やがて紛るる我が身ともがな』――ですか?」
「うわあっ!? びっくりしたあ。菖蒲、いつの間に」
脈絡もなく背中越しに後を続けられ、藤助は、本日二度目の驚嘆の音を上げる。
どくどくと跳ね上がった心臓を落ち着かせながら、藤助は菖蒲の方を振り返る。
「あのさ、菖蒲。さっきの和歌だけど、どういう意味なの?」
「あの和歌は源氏物語の若紫の帖で、光源氏が藤壺の宮へと詠んだ一首です。意味は、『このように、再び逢うことは難しいでしょうから。いっそこのまま、あなたと共に夢の中に消えてしまいたい――……』ですかね。
光源氏は継母に当たる藤壺の宮のことを、一人の女性として愛してしまい。彼女が療養するために帝の傍を離れ里下がりした際に、密通してしまうんです。その後、彼女は源氏との子を――不義の子をもうけてしまい、一生、その罪の意識に苛まれることになるのですが……」
「へえ、そうなんだ。さすが菖蒲、物知りだね」
「いえ、そんなことは。それで、この和歌がどうかしたんですか?」
「いや、ちょっとね」
藤助は、苦笑いを浮かばせ。適当に誤魔化していると、またしても後ろから気怠げな声が上がる。
「おい、おい、なんだよ。朝から頭の痛くなるような会話をするなよ」
「梅吉! 珍しいね、梅吉が自分で起きるなんて」
「なんか自然と目が覚めちまってさー」
「ふうん。毎日こうならいいんだけど。
菖蒲、悪いけど、道松のことを起こして来てくれない?」
その要求に菖蒲は二言返事で了承すると、部屋を後にする。室内は、藤助と梅吉の二人だけとなる。
梅吉は椅子に腰をかけると、用意されていた朝食へと口を付けながら、
「なあ、藤助」
「なに? おこづかいの前借りなら駄目だよ。何度も言ってるけど、もっと計画的に使いなよ」
「違うって、そんなんじゃねえよ。
お前、……知りたいか?」
「知りたいって、何を?」
「“トウカ”って、人のことを――」
瞬間、藤助の瞳は、梅吉のそれへとすっかり釘付けとなる。無意味にも、ただただ喉奥を震わせる。
いつまで経っても、藤助の口から二の句が継がれることはない。手の力は自然と抜け、するりとその中からつかんでいた卵が滑り落ち――。
ガシャンと甲高い音が、室内中へと響き渡る。割れた殻の隙間からは、黄色と透明の液体が床一面へと広がっていった。
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