4.
日もまだ顔を出し掛けている時分――……。
静まり返っている家内にて。
「それじゃあ、行って来るよ。今日も帰りは遅くなりそうだから、夕食は先に済ましていいから」
「分かりました」
「先にいただきますね」と、藤助は靴を履き終えたばかりの天羽に鞄を渡し。そのまま見送ろうとする。
が、離れて行く背中に自然と駆られ、
「あの……!」
「なんだい。どうかしたのか?」
「えっと、その。あ……、ネクタイ、曲がってますよ」
そう言うと藤助は笑みを取り繕い、天羽の首元へと手を伸ばす。曲がったそれを整え終えると、「いってらっしゃい」と、辛うじてその一言を音に出した。
後へと続く、がちゃん――と分厚い扉の閉まる甲高い音が、鼓膜を大きく震わせる。
「なに、やってるんだろう……」
悔恨の残る唇の隙間から吐き出された息は、跡形もなく綺麗に消え去る。けれど、その音がいつまでも尾を引いていることに気付いていながらも、どうすることもできないまま、藤助はリビングへと戻り、朝の支度の続きをしようとする。
けれど。
「あっ、電話。天羽さん、忘れて……」
テーブルの上に、ぽつんと寂しげに。置かれたそれを今ならまだ間に合うだろうと、藤助は手に取った。玄関へと向かうがドアノブを掴んだ刹那、ふとある考えが頭を過ぎる。一度は頭を振って落とさせるが、その甲斐も虚しく。すぐにもまた蘇ってしまう。
すっかり口の中に溜まってしまった生唾を喉奥へと呑み込ませると、どくどくと高鳴る心臓をどうにか押さえ付け。藤助はぎゅっと強く目蓋を閉ざしながらも、震える指先で電源を入れた。
が――。
「指紋認証――……」
ゆっくりと開かせた瞳に飛び込んで来た無機質な絵面に、そうだよなと、藤助は口先で呟くことしかできない。
急に襲ってきた安堵感と、罪悪感と。その両方の間で大きく揺れ動かされながらも、藤助はどうにかその場に立ち尽くす。名残惜しくもそれを元の所へ――机の上に戻そうとしたがその瞬間、急に着信音が鳴り出した。
思わず素っ頓狂な音を上げさせる藤助だが、再び画面を見つめる。
「えっと、非通知? 天羽さん、失くしたと思って、その辺の公衆電話からでもかけてるのかな」
やはりすぐに追いかけて届ければ良かったと。本当に悪いことをしてしまったと、ますます罪悪感が積もっていく中。どうしたものかと一寸考えるが、藤助は通話ボタンを押すと耳に宛がえる。
ゆっくりと、深呼吸してから――。
「あの……」
「もっしもーし、ユウトってばー! 早く電話に出てよね、待ちくたびれちゃったじゃないかー」
予想を裏切り、スピーカーからは、キーンと男のそれにしては高めの音が響き、藤助の頭の奥深くにまで突き刺さる。
その声音にくらくらと脳内を回しながらも、藤助は電話を耳から遠ざけ。マイクに向かい、どうにか声を発した。
「あ、あの……!」
「ん……、あれ、ユウトじゃない……? 番号、押し間違えたかなあ」
「えっと、はい。俺もこの携帯の持ち主ではないんですけど、持ち主の名前もユウトさんではないので。間違いだと思いますが」
「ふうん、そっか。間違いかー」
電話の相手は、そうか、そうかと。そればかりを繰り返すが、一向に電話を切る気配を見せない所か、
「ねえ、ねえ。君、名前は?」
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「だって、こうして本来なら言葉を交わすことのないだろう相手と話をしているなんて。それってなんだか運命だと思わない?」
「運命って……。ただの間違い電話に、その、運命を感じているんですか?」
「うん、そうだよ。俺は感じているけどな、君に運命を――……。
だから、せめて名前くらいは知っておきたいなって」
「はあ……」
「そうですか」と、藤助は乾いた返事をするが、かと言って、見ず知らずの人間に個人情報を教えるなどもっての外だ。
そんな藤助の態度に、一方の男も興が冷めてしまったのか。ふうと湿った息の音が、藤助の鼓膜を機械越しに震わせる。
「そうだね、今日の所はこのくらいで。楽しみは大事に取っておかないと」
「はあ? 今日の所って……」
何を言っているんだと、質問する前に。スピーカーから発せられた凛とした声が、藤助の二の句を自然と途絶えさせる。
男は小さく息を吸い込むと、そっと、撫でるように優しく吐き出し、
「見ても又、逢ふ夜まれなる、夢の中に、やがて紛るる、我が身ともがな――……」
まるで、一種の音楽でも奏でているような。奥深くにまで強く響き渡って来るその声音は、先程までの男のものとは全くの別物で。
一体どのくらいの時間、そうしていたのだろうか。すっかり放心状態に陥っていた藤助だが、それも男の出す音により解かれた。
「それじゃあ、また」
「え? またって、あっ、切れちゃった……」
ツーツー……と、無機質な音ばかりが耳を掠める。しばらくの間、藤助はじっと画面を見つめていたが、不意にどたばたと慌しい音が外から響き出した。
続いて、バンッ! と、やや乱暴に扉が開かれた。
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