10.
迷子になった芒を捜しに、山の中を探索していた牡丹達。しかし、その最中。遭遇したのは捜していた末っ子ではなく、何故か一匹の熊であった。
その獣を前にして、牡丹と萩は揃って顔を蒼白させたまま。ぱくぱくと、口を開け閉めさせている。そして。
「ぎ……、ぎぎぎっ……、」
「ギャーッ!!」と、喉奥から込み上げて来た悲鳴を素直に吐き出そうとしたが、咄嗟に後ろから口を塞がれる。
「二人とも、静かに。熊は急に大声を出されると驚いて、飛びかかって来る可能性があります」
「飛びかかってって、そんなっ……」
「おい、そこの熊! 食べるなら俺より牡丹を食べろ! 牡丹の方がおいしいぞ」
「なっ。おい、萩。俺を身代わりにしようとするな! 俺は馬鹿親父の面を拝むまでは、何がなんでも死ぬ訳にはいかないんだよ」
「お前、まだそんなこと言ってるのか? いい加減、親父のことは諦めろよ」
「誰が諦めるもんか! 俺は絶対に馬鹿親父に恨みを晴らすんだ!」
こんな場面であるにも関わらず。口喧嘩をし出す二人の口を、呆れながらも菖蒲がまたしても塞ぐ。
「いいですか、二人とも。絶対に熊に背中を見せてはいけません。その途端、おそらく襲って来るでしょう。熊は本来、臆病でおとなしい性格です。なので、熊の瞳を睨み付けたまま刺激しないよう、ゆっくり後退して下さい」
その声に状況を思い出すと、牡丹と萩は熊へと向き直り。菖蒲の指示に従い、そろそろと後ろへと下がって行く。
が。
牡丹等が一歩下がれば、熊は一歩前進し。牡丹等が二歩下がれば、熊も二歩前進し……。
「おい、菖蒲。いくら離れても熊が近付いて来るんだけど。これじゃあ、いたちごっこだぞ」
「そうは言われましても、他に方法は……」
「ここはやっぱり一人を犠牲にして、そいつに熊が気を取られている隙に逃げた方がいいんじゃないか?」
「その犠牲者の役、まさか俺にさせる気じゃないよな?」
視線は熊に向けたまま後退して行くが、この調子では、いつまで経っても埒が明かない。
いつ襲いかかって来るかも分からない恐怖と牡丹達は対面しながら、それでも必死に逃げ続けていると、ふと後方からこの緊迫とした場とは不釣り合いな、
「おーい、みんなー!」
という、間延びした声が聞こえて来た。
「ふう、やっと追い付いた。三人共、足が速いなあ……って、どうかしたの? 後ろ向きで歩いたりして」
「桜文兄さん! それが、熊が……!」
「熊? 熊って、ああ……」
牡丹達の視線を辿り、対峙している存在を確認すると、桜文は小さく頷く。
「熊を刺激させないよう逃げているんですけど、全然離れられなくて」
「……分かった。俺が囮になるから、その間にみんなは逃げて」
「逃げてって、桜文兄さん?」
一体何をと、問う前に。桜文はその場から咄嗟に駆け出し、熊目がけ、一直線に突っ込んで行く。
突然の事態の展開に、熊は動揺したのか。四つん這いの姿勢から立ち上がり。腕を大きく振るが、桜文はそれを寸での所で躱した。勢いを殺すことなく、そのまま熊の懐へと入り込む。
そして、天に向かって蹴り上げた桜文の足が、見事熊の鼻先へとクリーンヒットする。その衝撃に熊は大きな音を上げ、くるりと背を向けると、一目散に後方へと駆けて行った。
その一瞬間の出来事を見届けると、
「た、助かった……」
たっぷりの空気を含んだ、情けない音を上げながら。牡丹達は全身に浮かび上がっている汗に不快さを感じる暇もなく、へにょりとその場に座り込む。
「……って。桜文兄さん、大丈夫ですか!?」
「うん。ちょっと掠っちゃったけど、これくらい平気だよ」
「平気って……。熊と闘うなんて、無茶し過ぎですよ」
立ち上がることすらままならない牡丹に引き替え、桜文はけろりとした調子だ。その上、軽快に笑い出す始末である。そんな兄の能天気な様子に、牡丹は感心を通り越し。最早呆れがちに、苦笑いを浮かべることしかできない。
一寸休んでいると、またしても遠くの方から物音が聞こえてきた。その音を耳にすると、誰もが咄嗟に身構えた。
が。
「おーい、芒はいたかー?」
「あっ、梅吉兄さん達! それが、熊が出て……」
「はあっ、熊だって? この山、熊がいるのかよ」
「熊が出るなんて。一刻も早く芒を見つけないと……って、ちょっと桜文。腕から血が出てるじゃないか!」
「ああ、これか? いや、なに。熊と一戦交えたからさ。その時にできた傷だよ」
「一戦交えたって、まさか、熊と闘ったの!?
もう、桜文はしょうがないなあ」
説教垂れながらも藤助はハンカチを取り出すと、それを傷口へと宛がえる。
「傷口は深くはないな。取り敢えず止血はするけど、旅館に戻ったら、ちゃんと消毒しないと」
「ああ、悪いな」
「さてと。熊が出ると分かった以上、ばらけない方が良さそうだな」
「はい。なるべく一塊になって行動した方がいいですね」
話もまとまり。芒の探索を再開しようとしたが、その矢先。牡丹のすぐ後ろで、草木が大きく揺れ動いた。
感じ取った気配に、牡丹は後ろを振り向くが時既に遅く。鋭い瞳と、宙の一点で交り合う。逃げ出そうにも、強く目を瞑るより他にはない。
けれど、次の瞬間。
「ストーップ!」
と、甲高い音がその場に響き渡り。そして、スパンッ――! と、熊の眉間に一本の扇子が直撃する。
続いて、茂みの中から小さな塊が飛び出し。その影は月光を浴びて、次第にその身を晴らしていき――……。
「す……、芒――!??」
影の正体である芒は、すとんと綺麗に着地を決めると、その声を背景に、そのまま熊へと近付いて行く。
それから、すっと腕を伸ばして。
「ごめんね、痛かったよね」
そう言いながら、彼は小さな手で、そっと熊の額を擦ってやる。その間、熊はおとなしく、芒にされるがままである。しまいには、ばいばいと。彼に手を振られながら、のそのそと山の奥へと帰って行った。
その後ろ姿を見送りながら、十年分は寿命が縮んだと。青菜に塩をかけたみたいに、牡丹は再度へろへろと地べたにへたり込む。
誰もが安堵に浸っている中、藤助は芒の元へと駆け寄ると、自身の方へと抱き寄せる。
「もう、芒ってば。勝手にいなくなったりしたら駄目だろう。心配したんだからー!」
「お兄ちゃん、ちょっと待って。この子が潰れちゃうよ」
「えっ。この子って……」
なんのことかと、藤助が首を傾げさせると同時。芒の胸元から、ぴょこんと何やら飛び出した。
「うわっ!? びっくりした。えっと、これってもしかして……」
瞬きを繰り返す藤助同様、見つめる先の円らな瞳も、彼の真似でもしているみたいに、ぱちぱちと、何度も漆黒色の眼を開け閉めさせる。
突然、目の前に現れた物体に、藤助はきょとんと目を丸くさせたまま。まるで、自身に言い聞かすように、
「これって、狸――……?」
そう問いかけると、問題の瞳をじっと見つめたまま。彼はぽつりと、口先で呟いた。
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