9.

 拍手の音が鳴り響く中、幕が閉じるのと入れ替わりで照明が点き。眩しさに目を細めながらも、萩は小さな息を吐き出させる。


 特に何事も起こらなかったことに安堵したが、その矢先。幕が閉じ、開放的な空気を放っていた辺り一帯を揺るがすような、緊迫とした声が上がり出す。その異変に気付いた萩は、

「あの馬鹿っ……!」


 やっぱり無理してたんじゃないかと、心の内でぼやきながら。現場に駆け寄ると予想通り、石浜が菊に向かって何度も声をかけていたが、一向に応える様子のない彼女の姿が目に入る。



「おい、菊くん! どうしたんだい? 菊くん!」


「あの! コイツ、芝居が始まる前から具合悪かったみたいで」


「なに、それは本当か!? そんな無理をしてたなんて……。

 仕方がない、このまま保健室に……!」



 石浜が菊を抱き上げようとした刹那、不意に後ろで大きく幕が揺れ動いた。


 そして、

「ちょっと、桜文兄さん――!?」

という素っ頓狂な音を背景に、その陰から一つの人影が現れた。


 突然ステージの上に姿を見せた桜文は、そのまま問題の箇所へと近付いて行く。腰を下ろすなり菊の顔色を窺い、

「やっぱり……」

 そう呟くと、桜文は菊のことを抱き上げた。



「おい、天正」


「菊さん、昨日から体調が悪くて、ろくに何も食べてなかったから。だから、倒れたんだと思う。

 保健室には、俺が連れて行く」


「……ああ、」



「そうか」と一言、返す石浜の声を背中越しに聞きながら。桜文は、静かにその場を後にする。そんな彼の元に紅葉も駆け寄り、三人は連れ立って保健室へと向かい出す。


 その背中を見送ると、萩も立ち上がる。彼等に続いて退却しようとしたが、こつんと何かが足に当たった。腰を屈めさせて拾い上げれば、それは記憶に新しいもので。



「これって、牡丹の妹の……」



(やっぱりこんな可愛らしいもの、あの女にはちっとも似合わないな。

 それにしても。このキーホルダー、随分とボロッちいな。塗装も所々剥げてるし……って、右足に何か書いてあるな。ええと、H・G……って、イニシャルか?

 でも、アイツの名前は確か菊……。天正菊なら、K・Tだよな?)



 それとも別の意味なのかと、萩は頭を捻らすが、答えが導き出されることはなかった。


 簡単に諦めると、今度はどうするものかと一寸迷ったが、取り敢えずとばかり、持て余したそれをポケットの中へと突っ込んだ。



「さてと」



(とは言っても、肝心の紅葉さんは、牡丹の妹の世話で忙しいだろうし。)



 ようやく菊から解放されたが、急に暇になり。萩は適当に校内をぶらつくが、それにもすぐに飽きてしまう。


 仕方がないと教室に戻れば、目に入って来たのは予想とは違った光景で。この日のために施された装飾はほとんど取り外され、何人かの生徒は箒で床を穿き、片付けをしていた。



「おい、どうしたんだよ。掃除なんかして」


「……ん? ああ、足利か。商品が完売したから、早いけど店じまいしたんだよ。

 それより、お前。天正菊に付いてなくていいのかよ? 劇の後倒れて、保健室で寝込んでいるんだろう」


「はあ? どうして俺が牡丹の妹に付いていないとならないんだよ」



「どうしてって、そんなの、天正菊がミス庚姫で、お前がその付き人役のミスター黒章だからに決まってるだろう」

と、間髪入れることなく、竹郎の口から返答される。


 その返事に、萩は思い切り顔を歪ませる。



「あのワガママ姫に今日一日、あんだけ付き合ってやったんだ。もう十分だろう。

 大体、あんな女がミス庚姫なんて、俺には未だに信じられん。もし庚姫がああいう女だったら、黒章も嫁にしようなんて思わなかっただろうな」



 ふんっと鼻息荒く一気に捲し立てると、竹郎はげんなりとした顔をして、

「足利、お前なあ。だから、そういうことを言うなよ」


「なにを。本当のことだろうが」


「だからあ」



「そういうことを言うなよ」と、竹郎は後ろを指差しながら。もう一度、呆れた声で繰り返す。彼の指先を目で追っていくと、そこには立腹顔をした男子生徒がずらりと控えていた。


 気付けば萩は彼等に取り囲まれ、そして。



「どうしてお前みたいなのが、ミスター黒章に選ばれるんだよ! 天正菊は、何を考えてるんだ!?」


「そうだ、そうだ。どうして選りにも選って、足利なんだよ。こんなアホなやつのどこが良いんだ」


「お前ばかり良い思いしやがって……! 足利に天正菊を取られるくらいなら、伝説通り龍に取られた方がましだ」


「おい、お前等。いい加減にしろよ。勝手なことばかり言いやがって。こっちは被害者なのに、どうしてあれこれ言われないとならないんだ。

 それに、俺はあの女に、手錠で拘束までされたんだぞ。それのどこが良い思いなんだよ」


「だから、それが良い思いだろうが。ただでさえ天正菊と一緒にいられただけでも十分なのに、挙げ句の果てには手錠で繋がれるなんて」



 なんて羨ましいんだ! あちこちから非難の声が一斉に上がる。結果は火に油を注いだだけで、萩は理不尽だと、そう思わずにはいられない。


 まさに四面楚歌の状況にも関わらず、それでも一人頑張る萩であったが、しかし。不意に、

「あの、お邪魔します……!」

と遠慮がちな声に合わせ、外側からゆっくりと扉が開いていった。その隙間からおずおずと、何者かが姿を見せる。


 その光景が目に入った瞬間、忙しなく反論を述べていた萩の口はぴたりと止まった。



「も、紅葉さん――!?? どうしてここにっ……!?」


「私達が呼んだの。手伝ってくれたお礼にね」


「お礼だと?」


「ええ。これから最後の催しものの花火があるでしょう。ウチの教室、絶好のスポットなのよね」


「ほら、紅葉ちゃん。いつまでもそんな所に立ってないで、早く中に入って。ジュースとお菓子も用意したから食べてね」


「はい。あの、ありがとうございます」


「いいのよ、そんな。足利くんより余程働いてくれて、大助かりだったんだから」


「そう、そう。それより、しっかりね」



 そう言うと、明史蕗と宮夜は揃って牡丹の方に視線を向ける。にやにやと、気味の悪い笑みを浮かべさせて、紅葉へと戻すと、

「頑張るのよ」

と、もう一言、またしても二人は声を揃える。瞬間、紅葉はすっかり頬を真っ赤に染め。戸惑いながらも熟したそれをそのままに、ちらちらと牡丹の方を盗み見る。


 一方の萩はと言えば、そんな彼女の様子に一切構うことはない。



「紅葉さん、こっちの方がきっとよく見えますよ」



(周りは邪魔者ばかりで二人きりでないのは非常に残念だが、でも、こうして一緒に花火を見られるんだ。)



 最後の最後ではあるが、それだけでも十分だと。単純にも萩が一抹の幸福に浸りかけていた矢先、再び教室の扉が外側から開いた。飛び込むように中に入って来た人物に、誰もがきょとんと目を丸くさせる。


 そして、代表者とばかりに牡丹が口を開き、

「桜文兄さん、どうかしたんですか? そんなに息を切らして」

と、突然姿を見せた桜文に問いかける。



「それに、兄さんは菊に付き添っていたはずでは……って、もしかして。菊に何かあったんですか?」


「ううん、菊さんなら大丈夫だよ。大分回復して、起き上がれるようになったし」


「そうですか、それなら良かった。けど、そしたら一体何の用ですか?」


「ええと、それは……。とにかく、ちょっと来て!」



 そう言うや否や桜文は手を伸ばし、そして――、なぜか萩の腕を掴み取った。それからひょいと米俵みたく、軽々と彼を肩へと担ぎ上げた。


 その一瞬間のできごとに、萩は自分の身に起こっている事象にも関わらず、何一つとして状況を理解できない。ただただ目を点にさせるばかりだ。


 そんな当人を置き去りに桜文は来た時みたく、そのまま豪い勢いで教室から飛び出して行った。



「あの、ちょっと……!??」



 一体どういうことなんだと、訳の分からぬまま。桜文に拉致された萩は、悲鳴混じりの声を上げる。



「桜文先輩、一体どうしたんだ? 足利なんか連れて行って」


「さあ? 俺には桜文兄さんの考えていることは、よく分からないよ」


「それにしても。足利のことを、あんなに軽々と持ち上げられるなんて」



「さすがだなあ」と、廊下から響き渡って来た奇妙な悲鳴に耳を傾けながら。牡丹は隣の竹郎同様、疑問を抱く一方だ。


 相変わらずの力自慢の兄に、感心せずにはいられなかった。

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