8.

「おい、牡丹の妹。また腹が痛むのか? おい、しっかりしろ!?」



 萩が何度も問いかけるが、菊が答えることはない。代わりに、荒い息遣いばかりが彼の鼓膜を軽く揺する。


 一向に整う気配を見せないその呼吸に、萩は苦虫を噛み潰したような顔をする。



「真面に立つこともできないのに、こんなんで芝居なんか。無理しないで、誰かに代役を頼めよ」


「代役……? 先輩って、本当に馬鹿ですね。本番まで、あと数十分足らず。衣装に着替える時間さえないのに、今から台詞を覚えるなんて無理な話ですよ」


「なんだよ、一々人のことを馬鹿、馬鹿って。だったら……、だったら、中止にしてもらえ。主役がこんな状態なら、仕方ないだろう。どちらにしろ、こんな体では到底無理だ」



 そう言うと萩は辺りを見回し。忙しなく動き回っている演劇部員に声をかけようとするが、突然ぐいと首元を引っ張られる。


 すると、目の前には菊の頭部が待っていた。



「……る……い……」


「え、なんだって?」


「だから、うるさいって言ってるのよ……!」


「う、うるさいって……」



 こっちは心配してやってるのに……!


 いきなり顔を上げたかと思えば、ぎらりと鋭い瞳で睨み付けて来る彼女に、萩の額には青筋が立つ。だが、その威圧的な瞳に、まるで蛇に睨まれた蛙みたく黙り込まされてしまう。




「……知ってますか? 舞台の上って、とても暑いんです。照明から発せられる熱のせいで、スポットライトを浴びているだけで汗が出て来るんです。特にこういう嵩張る衣装は、立っているだけで自然と汗が出てきます。暑いんです、ベタベタして気持ち悪いんです。

 それだけじゃない。毎日、毎日、発声練習に体力作り、それから何度も台本を読み込んで完璧に覚えて。一回切りの、たった数十分、数時間のためだけに何倍もの時間を費やし、ただひたすら稽古を繰り返す……。

 それでも……、それでも一瞬のためだけに、私はあそこに立ってる。演劇が好きだからとか、演技で人を感動させたいとか。そんな崇高な理由ではなく、きっと世界で一番不純な動機です」



 またしても俯く菊に、萩は彼女の肩を掴んで顔を覗き込もうとするが上手く見えない。彼女の顔色が分からないまま、ただ荒い空気混じりの声に耳を傾けさせる。



「舞台にさえ立てれば、どんな役でもいいんです。たとえ幕開け数秒で殺されてしまう死体の役だろうが、たった一言しか台詞のない村人の役だろうが、……いえ、たとえ台詞なんかなくても、あそこにさえ立てれば。

 自分以外の別な存在に――天正菊以外の何者かになれれば、それだけで十分なんです。だから」



 菊は、再び顔を上げ。先程以上の鋭さを携えて萩を睨み付け。



「だからたとえ何があろうと、絶対に誰にも邪魔させない――!

 もし余計なことを言って、中止になんかさせたら。アンタのこと……、アンタのこと、一生許さないから……!」



 高度な熱を帯びた声でそう言い放つ菊に、萩はそれ以上何も言えなくなる。そのことが分かると菊は萩の首元から手を外し、懐の前で、ぎゅっと小さく手を握り締める。


 まるで祈るみたいに――菊の手の中に納まっているクマのキーホルダーを、萩も不可思議な瞳で見つめていたが、不意に菊は一人立ち上がる。ゆっくりと後ろを振り返りながら、いつも通りの涼しげな表情を浮かべさせる。そして、背後に控えていた男――石浜いしはま武千代たけちよと対峙する。


 石浜は、真っ白な歯を唇と唇の間から覗かせる。



「菊くん、そろそろ時間だ。スタンバイを……と、君は見かけない顔だが……。ああ、」



「君が噂のミスター黒章か」と、石浜はじろじろと萩のことを観察する。けれど、菊に促されると、二人はステージの方へと移動する。


 石浜は、萩の方を一瞥しながら。



「ミスター黒章には、私を選んでくれると思っていたんだが……。とても残念だよ。だが、今からでも遅くはない。

 どうだい? この劇が終わったら、二人きりで続きを演じると言うのは」


「石浜部長は、相変わらず冗談が上手ですね。それに、部長は黒章ではなく、名もなき姫の婚約者ではないですか」



 ぺしんと肩に置かれた手を叩きながら、菊は石浜のことを軽く睨み付ける。


 それに対し、石浜は、

「そういう君は相変わらずつれないな」

と、残念そうに。しかし、口元には薄らと笑みを携えて応える。


 数分後、ブザー音が館内中へと響き渡る。その音に伴って幕が開き、劇は滞りなく進んでいく。


 だが、舞台袖からステージを見つめる萩の表情は、観客席に並ぶ数々の顔の内、どれにも一致することはない。



(本当にあれが、ついさっきまで立つことさえままならなかった人間なのか? 体調は良くなったみたいだが……、駄目だ、全然頭に入って来ない。せっかく紅葉さんが書いた脚本の劇なのに。

 ったく、どうして俺が牡丹の妹の心配なんかしないとならないんだよ。劇はあと、どのくらい続くんだ?)



 さっさと終われとそればかり、貧乏揺すりをしながら口先で唱える萩の願いが叶ったのか、芝居も、どうにかクライマックスへと突入する。


 真っ暗闇の中、浮かび上がるスポットライトの下。青年は、地に横たわる姫を胸に抱え。その腕の中に閉じ込めたまま、二人はただただ見つめ合う。


 その瞳から決して目を逸らすことなく、菊は頼りなさげに天に向かって腕を伸ばし。彼の頬にそっと片手を添え、紅色の唇を静かに解いていき、そして。



「……愛しています――」



 熱を帯びた瞳を、ころんと揺らし。ほんの一瞬、遠くを見つめ――……。


 けれど、すぐにまた石浜へと視線を戻し。そのままゆっくりと、菊は目蓋を閉じさせる。


 その動作に合わせるよう、最後の照明も落ち。辺り一帯は闇に支配される。だが、鳴り響く拍手の中、もう一度だけ。閉じられていく幕の隙間へと、彼女は無意味にも視線を向けさせた。

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