3.

 宵も半ば――……。



「うーん。家を出たのはいいけど……」



 これから先どうしよう。家を後にしてから数分と経たない内に、俺の口から自然と溜息が吐き出される。


 母さんの残してくれた貯金はあるけど、でも、多くもないからな。できるだけ節約しないと。まずは寝床の確保か。ホテルは……って、さすがに高いよな。もっと節約しないと。そうなると、やっぱり野宿しかないか。仕方ない。


 分かっていたつもりではあったが、突発的に差し迫る厳しい現実に、早くも目を背けたくなった。月光は目に突き刺さるように眩しく。その光の強さにまたしても自然と吐き出された溜息は、薄っすらと夜の静けさに滲み込んでいく。


 なんて、感傷に浸っている場合ではなかったと。俺は軽く首を横に振ると、再び走り出そうと一歩大きく踏み出すが、その矢先。



「おう、牡丹じゃないか。こんな時間にどうしたんだよ?」


「たっ、竹郎――!?」



 せっかく固めさせた決意もむなしく。思いも寄らぬ人物との遭遇に、踏み込みかけた足はすっかり行き場を失っていた。


 ひくひくと頬を引き攣らせている俺に、竹郎は、コンビニのロゴの入ったビニル袋を揺らしながら、こてんと首を傾げさせた。




✳︎




「ふうん、家出ねえ……」



 道理で大荷物だと思ったと、竹郎はあまり驚いている風でもなく。玄関先でサンダルを放り投げるようにして脱ぐと、ひょいと奥へと進んで行く。



「悪いな。いきなり押しかけて」


「なに、気にするなよ。散らかってるけど、適当に寛いでくれ。どうせ親父は会社泊まりで帰って来ないし、お袋は別居中でほとんど俺一人だから」


 好きなだけ居ていいからと、竹郎は持っていた袋を漁り。中から二本で一セットのチューブ型のアイスを取り出すと、その片方を俺に渡した。



「食べるか?」


「ああ、ありがとう」


「いえいえ。それで、どうして家出したんだ? 兄弟の誰かと喧嘩でもしたのか?」



 喧嘩の方がきっと何百倍もマシだったな。


 世話になるのに、何も言わないのはおそらくフェアではないだろうと。そう思うけど口は上手く動かず、言い淀むばかりだ。



「言いたくないなら、無理して言う必要はないけどさ。ただ、吐いちまった方が楽になれる場合もあるからさ」


「楽に……」



 ぽつりとそのフレーズを口先で繰り返すと、俺はゆっくりと口角を上げていく。



「……今日、家に来たんだ」


「来たって、誰が?」


「弟が……」


「弟? 弟って……」


「母さんの再婚相手の連れ子で、名前は萩って言うんだ。とは言っても、萩とは歳が一緒で、俺の方が誕生日が早いから兄になったけど、でも、そんな風に呼ばれたことは一度もなくて。

 そもそも萩とは家が近所で、幼馴染っていうのか? 昔からの腐れ縁で。

 おまけに俺の母さんと萩の父親――輝元てるもとさんっていうんだけど、二人は同じ会社で働いていて、とにかく接点が多かったんだよな。萩の母親もアイツが幼い頃に亡くなっていたから一人身同士、母さん達は協力して俺達を育てて、その過程でそういう関係になって。去年、とうとう再婚して。

 だから萩とは本当の兄弟みたいに育てられはしたけど、でも、やっぱり違うんだよな。今更、どうしてもそんな風には思えなくて。

 それに、萩とは気が合わなくて。とにかくそんな感じだったから、一緒に暮らすようになっても結局いつも喧嘩ばかりで。

 だけど、輝元さんは萩と性格は似てなかったからか、そういうことはなくて。寧ろ俺のことも本当の息子みたいに接してくれて、こういう人が自分の父親だったら良かっただろうって。ずっと、ずっとそう思ってた」



 ああ、そうだ。そう思ってたつもりだったんだっけ……。


 刹那、さああっ……と窓から入り込んだ一筋の風がカーテンを優しく揺らし、二人の間を吹き抜ける。



「だから再婚の話をされた時は、母さんもやっと親父のことを忘れられたんだなって。その相手が、俺の信用できる人で良かったって。そう思ったのに、いざ一緒に暮らし始めたら、急に輝元さんとどう接したらいいか分からなくなって。今までみたいにしていれば良かっただけなのに、それなのに、昨日までの景色とは変わって見えて。

 それでもどうにか誤魔化しながら過ごしている内に、母さんが病気で亡くなって。三人だけの生活になってからも、二人は変わりなく振る舞っているのに、やっぱり俺だけは上手くできなくて。

 ただでさえそんな状態だったのに、母さんの遺品を整理してたら、俺宛ての手紙が出て来て。その手紙には、……本当は輝元さんのこと、そういう風には思ってなかったって。だけど、それでも輝元さんは了承してくれて、一緒になったって。だから、何があっても二人の元に留まって欲しいって。そう書かれてて……。

 母さんは自分がもう長くないことが分かってたから。だから、輝元さんと一緒になったんだって。そのことを知ったら、ますますどうしたらいいのか分からなくなった。

 そんな時、天羽さんが現れて。親父の元に来ないかって誘われて。それに対して輝元さんは、好きな方を選べって。自分と萩のことは一切考えなくていいから、後悔しない方を選べって言ってくれて。だから俺は……」



 痛む喉奥を、それでも俺は震わせ。



「俺は……、俺は、自分から捨てたんだ。母さんが自分を殺してまで残してくれた居場所を、自分の手で捨てたんだ。

 萩の言う通り、俺のしたことはずっと恨んできた親父がしたことと変わりなくて。アイツに言われて、やっと実感したよ」



 ……いや、違う。させられたんだ。


 すっかり溶け切ってしまったアイスを、俺は力任せにただ握り締める。すると、ぐにゃりと柔らかな、なんとも言えない感覚が静かに返ってきて。



「母さんの思いを踏み躙ってまで、あの家を出て来たのに。なのに、結局親父には会えなかった所か、代わりに待っていたのは半分だけ血の繋がった兄弟で。笑っちゃうよな。兄さん達の存在は本当に知らなくて、そんな大事なことを教えてくれないなんて、天羽さんも人が悪いっていうかさ。

 ……本当、兄さん達は他に行く所がないから天羽さんに引き取られたけど、でも、俺だけは違って。ちゃんと居場所があったのに。あの家から出て行く必要なんかなかったのに。

 ずっと父親みたいに接してくれていた輝元さんよりも、俺は、俺と母さんを捨てた本当の親父を選んだんだ。馬鹿だよな、一度も会ったことがないのに。ただ血が繋がってるという理由だけで、今まで散々面倒を見てくれた輝元さんよりも親父のことを選んでさ」



 捨てるのなんて容易かった。捨てるまでに散々悩んで、悩んで、悩み抜いて。だけど、長かったその工程に対して、投げ捨てるのにかかった時間は僅か数秒足らずで。


 あまりの呆気なさに、いざ捨てたらこんなもんなんだって。あれだけ悩んだのに、俺が大事にしてきたと思っていたものは、それだけの価値しかなかったのかって、そう言われてるみたいで。だけど、後戻りなんてできなくて……。


 竹郎の言う通り全てを吐き出したら、少しは楽になったなと。俺は軽く頭を揺らす。だけど、それはなんだか罪の告白に似てるようで。映画やドラマでよく見受けられる、教会で懺悔するシーンが俺の頭の中に自然と連想される。


 だけど、その罪は、きっと洗い流されることはないだろう。たとえ神様が赦してくれたとしても、天国にいる母さんはきっと赦してはくれない。


 俺は空っぽの瞳を無意味にも揺らし。カーテン越しに、忌まわしい月を一人見上げることしかできなかった。



「ううんと、つまりさ。牡丹が家を出て来た理由って、足利家のことを兄弟達に知られたから……でいいのか? 兄さん達との生活が嫌になったとか、前の家に帰りたくなったからではないんだよな」



 こくんと俺が頷くと、竹郎は直ぐにも口を開く。



「そのことで、兄さん達に何か言われたのか?」


「いや、そんなことは……」



 と言うよりも、その前に家を出て来ちゃったからな。


 兄さん達はどう思ったんだろう。今更ながら俺は手の中のアイスをぼうっと見つめながら考えるけど、もちろん答えなんか出てこない。


 ちっとも考えがまとまらぬ内に、竹郎がまたも口を開く。



「所でさ。萩はどうして牡丹の所に来たんだろうな」


「えっ。どうしてって……」



 そう言えばアイツ、本当にどうして来たんだろう。俺を連れ戻しに来たって言ってたけど、でも、なんで……。


 大体、俺のことなんか嫌いな癖に。確かにアイツは最後まで反対してはいたけど、でも、結局その理由も分からないまま出て来ちゃったんだっけ。


 本当にどうして……。


 また、うだうだと考え込んでいると、竹郎は、

「……なあ、今からでも遅くないんじゃないか?」


「遅くないって、何が?」


「だから、足利家のこと。足利家を出て、今は天正家の人間になったけどさ。でも、お前にとっては、大切な人達だったんだろう? 萩だって、わざわざお前を連れ戻しに来たくらいなんだ。

 ちゃんと話し合えばいいんじゃないか? 結局さ、お互いに分かり合うには一番手っ取り早いというか、なんだかんだ、それしかないんだよな。

 ちゃんと話し合えばいいんだよ」



「問題は話し合えるかだけどな」と、一言付け加えるようにして溢すと。がしがしと、竹郎はやや乱暴に頭を掻いた。



「そりゃあ本来なら、同じ家で同じ時間を過ごすのが一番家族として理想的なんだろうけどさ。でも、それは一つの在り方に過ぎなくて、その形は家族によって様々でも良いんじゃないか。

 だからさ。確かに牡丹は今は足利家の人間じゃないけど、それって戸籍上の話だろう。お前が足利家の人間であった事実は変わらないんだ。

 今の家と足利家と、両方大事にしても、きっと罰なんか当たらねえよ」



 両方を……。


 そんなこと、考えたこともなかった。


 俺は思わず呆気に取られ。きょとんと目を丸くさせる。


 竹郎は、ふっと小さな息を吐き出した。



「まずはちゃんと話してみろよ。兄さん達に、足利家のことを。どうせお前のことだ。何も言わずに飛び出して来たんだろう? 牡丹って、そういう所あるよな。一人で全部抱え込もうとしてさ。自分ばかりが深刻になっているだけで、案外相手はそんな風に思ってなかったりするものだぞ。

 だから、」



「ちゃんと向き合ってみろよ」竹郎にしては珍しく真剣な声で後を続ける。その音は雑音に紛れることなく、俺の中へと入り込む。



 自分ばかりが……。確かに俺、逃げてばかりだな。あの時だって、今回だって。何も言えずに……、ううん、何も言わずに、ただ逃げ出したんだ。


 ちらりと、窓越しにカーテンの隙間から覗いている月を見つめながら。



「そう……だな……。うん、その内にでも……」


「その内って……。本当、お前ってそういう所あるよな。面倒事を後回しにする癖、直した方がいいぞ。どうせ困るのは自分なんだから」


「なんだよ、そういう竹郎だって。いつも宿題を後回しにしてるじゃないか」


「俺のことはいいんだよ。ていうか、アイス溶けてるぞ」


「えっ……? うわっ、本当だ」



 竹郎に指摘され気が付くが、時既に遅く。すっかり生温くなったそれを手にしたまま、俺はぐにゃりと眉を歪めさせた。


 俺は竹郎が用意してくれた布団に、半ば体を投げ出すようにして横になる。そして、急激に襲って来た眠気に素直に従い、重たい目蓋をゆっくりと閉ざさせていった。

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