第35話 どっち?

「……え?」

 

 俯いていたきらなは音だけしか聞こえなかった。慌てて見てみれば、赤く腫れあがった頬、萌夏が殴られたということが分かった。でも、信じられない……、あのれいれが殴った?

 それに、今のれいれは、これまでに見たことがない表情をしていた。


「ふざけるな……」

 れいれの低い声が、きらなの鼓動を早めていく。


「きらなの目が気に入らなかった? 眩しかった? むかついた? ――それだけできらなを傷つけたの? あなたになんの権利があって? あなたはきらなの、なんなのよ。友達? 奴隷? 上司と部下? 違うでしょ。中学時代、同じ学校に通っていただけの、友達じゃなければ赤の他人としか言えない関係性でしょうが。

 そんなあなたが、きらなをいじめていい理由なんかない……なにもかもを奪っていい権利なんてない!! ――ふざけるなっ、あなたなんか救わない、救ってやるもんか。きらながなにを言おうと関係ない、私は私の道を歩かせてもらうわ。あなたなんかに関わるくらいなら、たとえきらなに嫌われてもいい……、あなたにきらなを奪わせてたまるものですか!!」


 れいれは、小刻みに震えるきらなの手を握る。それから萌夏が持っていた、今は地面に落ちている歯ブラシを掴み、ばきんっ、と折った。

 萌夏に向かって投げ捨てる。


「行こう、きらな。救うべきじゃないやつはいるものよ。どれだけ救いたいと善意を持っても、あんな濁ったやつを救いたいと思うのは、もう善意じゃないわ。誰かに向けての悪意にしかならない。今のきらながそれなの――、助けるやつは、選ばないと」


 なにも言えず、きらなは引っ張られたまま、部屋を出ようとしてしまう。

 しかし、立ち止まる。ぎゅっと、れいれがさらに力を入れたが、それでも振り向いた。


「萌夏のことを救う気はないけど、でも、夜須子のことは救いたいから――だから萌夏のことは殺人犯から守るよ、絶対に」


「バカでしょ、きらな」

 萌夏は顔を伏せ、表情を見せないように。

 腫れあがった頬を見せたくないのだろう……そういうことにしておく。


 彼女は消えそうな声で、

「ヤスのこと、信用しない方がいいわよ。まあ、きらなに言っても無駄だろうけど。でも、あたしにだって一応、善意くらいはあるから。信じる信じないは勝手にして。繰り返し言うけどね、ヤスを、信用しない方がいい――。それだけよ。じゃあ……早く帰って。帰れ!」


「萌夏……」

 きらなは彼女を見つめたまま、れいれに引っ張られる。

 心を乱されたまま、きらなは最大のトラウマである萌夏と、その自宅から抜け出した。


 ―― ――


 きらなの体から出ていた嫌な汗は、外に出て風に当たっている内に、だんだんと消えていった。少し寒いか。それが良かったのかもしれない。きらなの心も落ち着きを取り戻す。

 結局、萌夏に会って得られたことはなにもない。『ヤスを信じるな』という忠告があったが、素直に信じるべきではないだろう……、無視することもできないが。

 判断に困る新たな謎だ。萌夏の嫌がらせの可能性もあるが――その可能性が高いが――。


 夜須子のことを疑っているわけではない。しかし、萌夏のあのタイミングで出されたこの忠告が、まったくの嘘とも言えなかった。きらなは二人を信じられないという、一番やってはいけない状態に陥ってしまっている。どちらか一方は信じるべきだ――でないと動けなくなる。


「気にしない方がいいわよ、きらな。

 あんなの、こっちの行動に迷いを生ませるためだけの嫌がらせなんだから」


「れいれちゃんは、萌夏の言葉が嘘だって分かったの……?」


「そういうわけじゃないけど……でも、あの子を信用しない方がいいって言葉がもう、信用できないし」


 れいれが言う『あの子』とは夜須子のことだ。

 萌夏は、夜須子のことを信用するなと言い、その根拠は示されていなかった。萌夏にしか分からないことだろう。それを知っている萌夏のことも、気になるところではある。

 きらなの中で、意見が揺れる。どっちだ、どっちを信じる……? 夜須子に助けを求められ、手がかりの一つである萌夏の元へ行かされた。夜須子がなにかを企んでいるとしたら、この時点で既に彼女の中でなにかが始まっているのかもしれない。

 順調に、きらなたちは夜須子の手の平の上で動いている――のだろうか。


 石切萌夏、仇河夜須子。

 殺人事件、殺人犯、萌夏の言葉、夜須子の本質——。

 これが今ある謎だ。要素、キーワード。


「ダメだ……全然、頭が回らない。なんだか全身が熱くて、気持ちが悪いし……」


 主に頭が痛い。昔のトラウマを一気に思い出したから、なのだろうけど。

 きらなは、れいれに原因を言うことはなかった。言えば、これ以上、萌夏や夜須子に近づけさせてはくれない気がしたからだ。れいれは優しい――優し過ぎる。

 目的のために邪魔になってしまうような優しさなのだ。


「じゃあ、少し休む? 朝から色々と忙しかったしね。

 それに、レーモンとも会わないといけない――って、きらな!?」


 れいれが慌てて、きらなを支える。

 ふらり、とれいれ側にきらなが倒れたのだ。


 全体重をかけているせいか、いつもよりもきらなの体が重かったが、だけど支えられないほどではない。れいれは体勢を変え、きらなを背中に背負う。


「はあ……まったくもう」

 安心したのか、ぐーすかと眠っているきらなを見つめながら、そして嬉しそうに呟き、れいれは自宅へ――ボロボロのアパートへ向かった。

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