第32話 仇河夜須子

 振り向きたくない……、そもそも振り向くための動きが、筋肉が痙攣してしまってできなかった。無理やり動かせば、錆びついたロボットのように、ぎぎぎ、と動かせないこともないが……。きらなが振り向くよりも先だ。声の主が、きらなの視界へ回り込んでくる。


「あ、やっぱりきらなだ。へへ、久しぶり。私、ずっと会いたかったんだ」

 わたしは会いたくなかったよ、と言いたかったけど、きらなは声が出なかった。

 まるで、昔のように首を絞められているように、喉が塞がれてしまっている。


 過去の記憶が湧き出てくる。夢に見たせいもあるだろう、その記憶は実際に今されているような鮮明さがあった。


 彼女は――、中学時代から変わっていない黒縁眼鏡をかけていて、真面目ちゃんとあだ名がつくように、黒髪を肩にかからない程度、校則を守った髪型をしている。いつも遠くからきらなのことを見つめ、傍観を決めていた少女だ。

 彼女は、仇河あだかわ夜須子やすこと言う――。


 そんな彼女が目の前にいる。しかも――冷静に考えれば当たり前だが、今のきらなには当たり前のことを当たり前だと認識する余裕がなかった――夜須子は王場女子の制服を着ていた。

 きらなと、同じ……?


「どうして……なんでこの学校に……? わたしは、だって調べてっ、中学の子が誰もいかないこの学校を選んだのに――どうして夜須子がいるの!?!?」


 れいれは、レーモンやエミールは例外であるとしても、きらなが『ちゃん』付けをして呼ばない人間を初めて見た。この、夜須子という少女は、きらなにとって仲が良かった相手なのか……いや、違う。見ている限り、真逆だろう。

 とは言え、喧嘩した、というわけでもない様子だった。


 ……それに、互いに向き合っている感情が、真逆でもある。

 きらなは夜須子を嫌っていて、

 夜須子はきらなを好いている。


「ギリギリで変えたの。きらながここに行くって聞いたからね。私も、ここにしよっかなってさ。クラスが一緒は、たぶん無理だとは思っていたから……できれば昨日の内に探して声をかけようと思っていたんだけどね。見つけられなかったよ。

 帰るの早かった? それとも新しい友達と遊んでいたのかな? きらなが楽しかったなら良かったよ――それでね、今日は問題が起こったらしくて、早めに帰れるから、きらなを探していたら……こうしてちょうど見つけられたってわけ」


 きらなが無意識に後じさる。


「なんで、そこまで……、また、中学と同じことをするの……?

 また、わたしに――」

 

 きらなの体が小刻みに震え始める。嫌な汗が、きらなの頬を伝い、顎から滴る。


 その様子を見ていたれいれが、きらなを守るように前に出た。そして、夜須子を睨む。


「……あなたからきらなへの用事が、大切なものなのだとしても。今日のところは下がってくれないかしら。こんな状態のきらなになにを言っても無駄だと思うわ……、それに、大事な友達をここまで戸惑わせて、この私が、あなたを許すとでも思うのかしら?」


「いや……、ごめんなさい」

 と、夜須子は意外にも、あっさりと引き下がる。これに驚いたのはれいれだ。きらなをここまで怯えさせたのだから、怯えさせるような『なにか』を持っているのだろうと思っていたが、どうにもそういうわけでもないらしい……?


 見た目だけで判断すれば、本当に真面目な生徒にしか思えない。真面目だが、自分の意見を言えないタイプである、ようにも見える。


 きらなが怯える原因が、れいれには分からないが、恐らく、夜須子には、きらなにしか分からない脅威があるのだろう……。

 今、彼女が持っていないものであれば、れいれには知りようもないことだ。

 過去のことは、れいれには分からない。


「きらな」

 夜須子が屈み、膝を地面につけ、膝立ちの状態になる。


「きらなを追いかけて、学校を変えて、一緒のクラスにはなれなかったけどさ、でも、こうして出会えたのは、間違いなく嬉しいよ。……きらなと一緒にいることが、私にとっての償い方だって思ってる。責任を取るつもりだから……、だから――。

 ねえきらな、ずっとずっと、言いたいことがあったの。きちんと、きらながちゃんと聞けるタイミングでもう一度言うと思うけど、それでも今、聞いてほしい。

 この場で、言わせてほしい。

 ――きらな、中学三年間、なにもできなくて、守れなくて……止められなくて、注意もできずに先生に助けを求めることもできなくてっっ、本当にごめんなさい!!」


 おでこを地面に打つような勢いで頭を下げる夜須子。彼女に、冗談の二文字はないように見える。真面目だ、ふざけてなんかいない。誠意を込めた、最大の謝罪だ。


「みんなを止めようと思えば、止めることができたと思う……、でも止められなくて――ううん、止めなかったんだ。怖かったの。きらながいなくなれば、次はきっと、自分が標的になるから……私は自分の保身のために、きらなを売ったんだよ!!」


「ちょっと待って」

 と、れいれが頭を下げる夜須子の肩を掴んで、問う。


「あなたは、きらなになにをしたの……?」


「色々なことをしたよ……許されないようなことを、たくさん。一生、敵だと思われても仕方がないようなことも。殺意を抱かれても、おかしくないことを――。きっと、殺されても文句は言えないよね。

 石鹸を口に押し込めて、飲み込ませた。吐かせないように口を塞いだ。改造スタンガンを、複数同時に体に当てて、電流を流した。日常的にサンドバッグにした。

 他にも、色々と――絶対に、許されないことを」


 そこで、れいれが夜須子の胸倉を掴んで引き寄せた。彼女の体が浮き上がる。

 勢いで殴らなかったのは、れいれ自身、よく耐えたと思った……、今にも叫びたいほどの怒りが、彼女の中で渦巻いている。

 ……やっと分かったのだ、きらなの、あの底が見えない殺意衝動の正体が。それは中学時代の思い出が原因だったのだ。過剰よりもさらに過剰な、いじめの恨み――復讐が、心に蓄積されていたのだ。それが爆発しないまま、きらなの中で消化不良になってしまっていた。


 しかも溜まったそれが多過ぎて、しかも未だに少しづつ増えている――尽きることがない殺意はキラー・マシンでさえまだ吸い切れていないのだ。

 ここまでの殺意を溜めた原因の一端である目の前の少女を、れいれは許すことができない……耐えたのは間違いだっただろう、このままぶん殴った方がいいはずだ。

 れいれのその衝動は、しかしきらなによって止められる。

 彼女の指先がれいれの肌に触れ、一瞬でれいれの頭が冷える。


「きらな……」

「れいれちゃん、やめて。これはわたしの問題……、れいれちゃんが、手を汚すことなんてないんだから。それに、これは、わたしが乗り越えないと意味がない。いつまでもあの過去に縛られているままじゃ、どうしたって、前に進めないんだから」


 きらなは思い出した過去のトラウマによって吐きそうになるが、だけどそれを無理やりに抑えつける。そして、れいれに離され、地面に尻もちをついた夜須子の元へ。

 屈んで、視線を合わせる。


「夜須子……、謝っても、わたしは許さない。たぶん、一生。それだけのことをしたんだから、一生、罪を償い続けることになっても文句はないよね?」

「うん……ごめん……ごめんね」


「謝らないでよ。わたしが夜須子に下した罰は一生、罪を背負っていくものなんだから。謝ることはしなくていいんだよ。言い方は悪いけどね、無駄なの」


 うん、と夜須子は頷く。だけど、謝り続ける。そうしないと気が済まないのだろう。

 夜須子の自己満足だ。


 だけど、彼女の性格的に、流されてやってしまっただけで、本当は優しい少女だ――止められなかったのは、本当だろう。きらなをいじめることを、楽しんでいたタイプではない。主犯は別にいると分かっている――。

 一生、罪を背負うほどのことをしたかと言えば、違うだろう。

 夜須子に背負わせるにしては、重過ぎたかもしれない……。

 きらなは夜須子に八つ当たりをしてしまっているのではないか、と思ったが、違うと言い聞かせる。いじめられたのは事実、傷ついたのも本当だ……、八つ当たりなわけがない。


「きらな、行こう」

 と、れいれがきらなの手を取った。

 夜須子のことも気になるが、しかし今は、それどころではない。きらなは引かれるまま、れいれの後をついて行く。本来の目的へ向かうべく――、

 それを止めたのは、またしても夜須子だった。しつこいな、と思ったが、今度の彼女は、瞳が別種のものだった。謝罪の件、ではない……?


「きらな、助けてほしいの……」

「え」


 その言葉を聞いて、きらなは――、中学時代のいじめや、トラウマのことなど、頭の中にはもうなかった。助けを求める夜須子のことが、もう自分の力ではどうにもできない壁を前に、手をかけるどころか這うしかない状況の少女にしか、見えなかった。


 だから、きらなは迷いなく手を差し伸べる。

 れいれには、「甘いよ」と言われるだろうと分かってはいるけど、それでも。


 放ってはおけなかった。


「――どうしたの?」

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