第17話 異変 その2
「さっき少しだけ見たれいれちゃん……大丈夫なのかなあ」
と、きらなはのん気にそんなことを考える。
命の危機と言える状況にもかかわらず、だ。
まず逃げ延びることを考えるべき状況で、しかしれいれの姿を探している。
逃げながら探しているのではない、探しながら逃げているのだ。
優先順位はまず、れいれを見つけることである。
自分よりもれいれを選び、彼女の心配をしている。
だからこそきらなは、意識が自分ではないところに向いているために、爪痕の急な動きの変化についていくことができなかった。
「わわわっ」
爪痕が、きらなを越えて前方を塞ぐように位置を変えてきた。
当然、目に見える脅威にわざわざ突っ込むきらなではない。咄嗟に、ちょうどタイミング良く見つけた真横の狭い路地へ飛び込む。そのまま直進して路地を抜けると、辿り着いた場所は、元に戻ってきた――駅前だった。
れいれを見かけた場所である。
……、違和感があった。言葉にできない、説明ができない引っ掛かり。
確かに、考えてみれば、都合が良過ぎないか?
位置関係的に、ここに戻ってくるまでの距離がおかしい。直進で抜けることができる路地などなかったはずだ……、新しく作られていたならきらなも知らない道ではあるが……。
タイミング良く見つけた細道。それを、運が良かった、で済ませていいのだろうか。
もしも、この狭い通路にきらなを誘き出すことが相手の目的だった場合……、今ここにきらながいることは相手にとって望んだ結果である。
だから、当然の接触があるはずだ。
「……ひっ」
きらなが視線を感じ、上を向いた時だ。
きらなの目前、まるで、小学生が白い粘土で、不器用なりに一生懸命に作った人形――、
凹凸が多い不格好な白い巨人が、夜空の真下に立っていた。
通ってきた道の路地、壁と壁の間に足の力で挟まるような体勢で、きらなを見下ろしている。
まさに今から喰らいかかろうとしているように、じっくりと観察している。
目はない。
光の加減で少し凹んでいるようには見えているが……、それが目なら、合っている。
目が合っている。
ぞわぞわぞわッッ!? と全身にぶわぁっ、と鳥肌が立った。
「ひっ、う、あ……」
遅れて感じる恐怖は、きらなに、本気の逃げ、という行動をさせた。
どうして今まで姿を見せなかったのか、なぜ、今になって姿を見せたのか。
どうして爪痕だけが見えていたのか、などなど、分からないことだらけだ。
だけどそんなことを推測する余裕もない。
本物の恐怖がきらなに思考をさせない。きらなはとにかく一心不乱に、逃げに徹する。
痛みを持つ足では、そうでなくとも人間の足ではあの白い巨人からは逃げられないだろう。
だからこそ、人間が作り出した、強敵に対抗するための道具に頼るべきだ。
人間は、野生の世界では、猛獣には敵わない。
腕っぷしだけでは、とてもじゃないが、通用しない。
弱肉強食の喰われる側だ。
だけど、猟銃があれば、罠があれば――、勝敗は逆転する。
逃げながらだ、きらなは周囲を注意深く観察し、やがて地下鉄を見つけた。
「……迷ってる暇なんてないんだよね……。ここで悩んで、行くか行かないかって選択をできるほど、今のこの状況は甘くなんかないんだよね……っ!」
誘導されているとは考えなかった。
されていたのだとしても、やっぱり可能性が一番高い選択肢だろう。
一瞬で判断し、地下鉄の入口へ。この危機的状況でありながらも、しかし無賃乗車をする度胸がないきらなは、律儀にお金を払おうとした――だが、ICカードではないきらなは切符を買わなければいけないのだが、さすがに、立ち止まって買っている余裕は作れなかった。
だったら仕方がない――緊急事態だ。
改札を飛び越えるしかない。ここで死ぬより、生きた上で、あとで自首をすればいいだけだ。
そんなことを考えている時だった。
しばらくの間、全力疾走をしていたからか、足元がおぼつかなくなってくる。
そして、ががっ、と足で足を蹴ってしまい、階段を目前にして前に転んでしまう。
「――ひうっ」
階段を転げ落ちる。
途中の踊り場も越えて、長い階段を転がり落ちて、壁に激突して勢いが止まった。
頭は無意識に庇っていた。だが、それで両手は塞がってしまっている。他の部分への防御をまったくしていなかった。
肩、腹、腰、太もも、膝、ふくらはぎ、くるぶし――、たぶん、どこか折れている気がする。
折れていなくともひびくらいは入っているかもしれない。
ただ不幸中の幸いか、時間がかかっていただろう距離を一瞬に縮めることができた。
もたもた階段を下りている内に追いつかれる、ということはなかった。
だけど早く立ち上がり、進まなければ、アドバンテージもすぐに消えてしまう。
痛む全身を引きずるように、改札を通る。
扉が閉まったが、構うものか。無理やりこじ開けて、駅の中へ。
「ぐ、ううううっっ」
人がいない。……? と思うも、今は好都合である。
白い巨人に他人が襲われている光景は見たくない。
改札の先の階段は、注意しながら下り、ホームへ立つきらな。
早く、電車がきてくれれば、逃げることができる――だが。
しかし、駅のホームで見た光景は、きらなの希望を跡形もなく打ち砕く。
「嘘……こんなことって、あるの……?」
目を見開く。
でも――、と言葉を続けた。
「おかしいとは、思ってた……思っていたけど、あの状況でいちいち突っ込むことなんてできなかったから、だから、流していたけど――やっぱり、おかしいよ!
おかしいおかしいおかしいっ、なんで、なんで電子掲示板の電源が切れているのっ!?」
これでは次にいつ電車がくるのか分からない。そもそも、電車は走っているのだろうか?
もしも電車が走っていなければ、この駅を通らないのだとすれば、きらなは自分で追い詰められに向かったことになる。苦労して、全身に青あざを作りながら――袋小路へ。
人がいない、駅員もいない。それは電車が走っていないから――機能していないから?
だったらどうして駅に入ることができたのだろう……、改札の手前で、立て看板でもあれば分かったのに……。
がくり、ときらなが膝を落とす。今になって、どっと疲れを認識した。
痛い。全身の隅から隅まで、どこを指しても痛かった。
あの巨人とこの無人の駅に関係があるのか、そんな分析もできていなかった。
思考が回らない。
真っ白、なのだった。
そしてそんな空白を塗り潰したのは、同色の巨人である。
粘土で作られたような不格好で凸凹な、白い巨人。
ゆっくりと、階段を下りてくる。
きらなへ追いつくための距離を楽しんでいるのかもしれない。
だとすれば感情がある……? 口元が笑っているように見えるのは、ただの光の加減なのか、本当に感情があるのか……どっちだ?
どちらにせよ不気味な笑みだった。
今にも倒れそうなきらなの元へ、巨人が近づいてくる。
一歩、一歩、ゆっくりと。
きらなと変わらない二足歩行。
ただし大きさは三メートルはある。巨人、と言うほどではないが、それでも大きいことに変わりはない。町を破壊する怪獣でないだけまだマシだが、しかしリアルな大きさである。
三メートル。
たぶん、一番怖い大きさだろう。
そして相手の二本の腕の先は、鋭く尖っている。
三本指で、鋭利な刃物が伸びている――まるで刀だ。
爪痕を残してきた得物。
ちゃきちゃき、という刃物同士がぶつかり合う音が、まるでカウントダウンだ。
「――た、く、ない」
巨人を見上げながら呟いたきらなの本音。
それは刃物の音でかき消されたが、しかし二度目の呟きは、もう呟きではない。
心の叫びは、誰もいない駅のホームに響き渡る。
「――死にたく、ないッ! 絶対に――絶対に!
こんなところで死にたくなんてないっ! 民美ちゃんに、煙子ちゃんに、弧緑ちゃんに出会って友達になれたっ! それに、まだれいれちゃんと友達になってない!
やっと目的が見えて、やっと生きる意味を見つけて、それなのに! なんで! なんでこんなところで死ななくちゃいけないのっ!? やだやだやだ嫌だ!
わたしがなにをしたっていうの! なにもしていないのに、なにもできてすらいないのに!
神様はわたしをどこまで堕とせば気が済むの! 持ち上げる気なんて一切なくて、ずっと、落として! 底辺まできたっていうのに、さらに地面を抉ってまで、わたしを落としてっ!
ふざけるな、ふざけるなふざけるなッッ! わたしはもうあなたなんか――神様なんか信じない! 信じてやるもんかっ! あなたに頼むくらいだったら、悪魔とか死神に頼んだ方が全然マシだあっ! これほど言われて悔しいのなら、救ってみてよ! 救い上げてみてよ!
もうわたしは期待しないっ! ――神様なんか、クソ喰らえだッッ!」
不満を叫ぶ。
聞いているのかいないのか、神様からのアクションはなかった。
見ているのかも分からない。いるのかも。でも、いてくれないとやってられない。
悪意を持ってきらなを堕としていると思わなければ、不幸過ぎるのだから。
ちゃきちゃき、と刃物同士の音が聞こえてくる。
真っ白な巨人が、きらなの叫びに同情することなく、近づいてくる。
振り上げられる刀。それを見ても、きらなの体は動かなかった。
もう限界だった。
体力的にも、精神的にも。
逃げないと死ぬ。分かっているけど、動かないことにはどうしようもない。
そしてきらなの準備を待ってくれる巨人ではなかった。
振り上げられた刃物が、振り下ろされる。
その爪がきらなに迫り、刃に反射した蛍光灯の光がきらなを照らした。
逃げないと、死ぬ。
分かっている、分かっている――嫌なほどに、分かっているのだ。
分かって、いる。
――分かっている。
「本当に分かっているのかよ、おまえはよ」
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