魔法少/女編
第16話 異変 その1
気づけば、夜の九時になっていた。
昼から考えれば――まあ、かなりの時間、お喋りをしていたらしい。
四人分の幼少期の話をし始めたら、なかなか質問が止まらなくなったのだ。
こういう時、前のめりに場を回すのは民美である。
彼女のスマホには自身の幼少期の頃の写真がたくさん収まっていた……それらを一から全部、エピソードを交えて説明していれば、これくらいの時間にはなるかもしれない。
ともかく、さすがに九時を過ぎたら帰らなければならない。
もっと喋りたそうにしている民美だが、明日もある。明後日も、明々後日も。
これから三年もあるのだ、話す機会はいくらでもある。
長時間にも渡って喋っていても、不思議と疲れはなかった。
それだけ、四人でのお喋りが楽しかったということだろう。
民美と弧緑、煙子は家の方向がまったく逆らしい。なので一緒に帰ることはできなさそうだ。
一人だけで帰るきらなは残念だと思うが、さらに残念がっているのは、煙子だ。さっきまで繋いでいた手を離してくれるまで、だいぶ時間がかかったのだから。
大丈夫なのか、帰れるのかな、と心配してしまう。
そこまで子供ではないと思うが、やっぱり心配なのだ……まるでお母さんみたいだ、と自分で思って、くす、と笑ってしまう。
「まさか、鑑賞するために持ち帰る、なんて言われるとはね……」
三人と別れた後、一人で帰路につく。
そこで、さっきの光景を思い出したのだ。
まさか両手でぎゅっと握られるとは。
煙子はきらなを逃がす気がない。
『……逃がさない』
『逃がして! 今の煙子ちゃんからはすごく嫌な予感しかしないから!
だから離して、お願いですっ!』
お願いしてもむすっとするだけで離してくれなかった。
逆に、さらにぎゅっと、手に力を込められる。
『なにおぅ!? ここにきてまだ離してくれないだとう!?』
『……離さない離さない離さない離さない……、
このまま持って帰って部屋に置いて鑑賞して感触を楽しんで――』
『なんかお経みたく唱え始めちゃってるっ!
お願い助けてわりと本気で命の危険を感じているからあっっ!!』
そんなやり取りを止めたのは民美だった。
煙子の頭を、とんっ、と叩いて、
『まったく、おふざけもやめなさいって。
ほら煙子。きらなも嫌がってるから、ね?』
民美の言葉に、煙子は渋々と言った様子で従った。
『きらなには明日、また会えるでしょう? きらなにはきらなの生活があって、煙子には煙子の生活があるんだから。自分の望むことだけをするなんてね、この世界じゃできないんだよ?』
だから今日はもうお終い。
民美が煙子にそう言って、煙子は民美の言葉に、こくん、と頷いた。
『煙子ちゃんは、民美ちゃんの言うことは聞くんだね……』
『そう? 煙子は基本的に誰の言うことでも聞くよ。悪人でも善人でも、わたしと同じように誰にでも分け隔てなく、無難に言うことを聞くよ。
まあ、今のところ言うことを聞いていないのはきらなだけなんだけどね』
『なんで! なんでわたしだけなのっ!?』
騒ぐきらなだが、煙子のそれは、打ち解けている、という証明でもある。気持ちを他人にぶつけるのが下手な煙子は、無難に従っているだけなのだ。それを曲げ、拒否するには、彼女の気持ちがそこに乗る必要がある。
つまり、気持ちを乗せようと思わせているだけでも、きらなは他よりも上にいるのだ。
煙子からきらなへの、信頼があるからこそできることである。
それに気づかず、きらなはもやもやしたまま、別れる時間だ。
『それじゃあ、きらな。また明日ね』
『……うん、また明日』
―― ――
別れてからも最後までずっときらなを見つめていた煙子の寂しそうな表情が、頭の中にずっと残り続けている。いま考えたら、彼女を持ち帰っても良かったのでは、と思う。お泊り会である。たぶん、母親も喜ぶだろう……ただ、
家のベッドできらながどういう扱いをされるかは、予想できないこともない。
めちゃくちゃにされることはないだろうが……それでもちょっと怖かった。
煙子と一緒に保健室に行く時は気を付けよう。
駅前、夜の九時である。
昼間よりも少ないが、それでも人はいる。お疲れ様です、とすれ違う人へ、心の中で呟く。
すると、駅前の居酒屋の扉が開き、スーツ姿の男性三人が出てきた。彼らは互いに肩を組んで支え合って歩いている。酔っているのだろう、三人共、足がふらふらだ。
きらなとすれ違う。相手はきらなのことなど、なんとも思っていないのだろう。
視界に入ってさえいないのかもしれない。目線の高さがだいぶ違うのだから。
きらなは、彼らの様子を見つめながら、思う。
あれが友達。
あれが、支えるということなのだろう、と。
今日、やっとできた友達。民美、弧緑、煙子。自然と、彼女たちと支え合うことを、きらなはできていたのだろう。それが友達というものなのだから。
でも、きらなが一番支えたいのは、その三人ではない。順位の問題だ。嫌なわけではない。
やっぱり、きらなが想うのは、一番最初に出会った、一人の少女なのだ。
雨谷れいれ。
彼女を支えたくて、彼女に、支えられたくて。
「れいれちゃん……」
呟く。春とは言え、夜はまだ寒い。
立ち止まるとやっぱり、ぶるっ、と体が震えてしまう。
居酒屋の前にいる女子高生……きらなの場合は中学生に間違えられてしまう。スーツ姿のおじさんを見つめるきらなを警察が見たら、変な誤解をするかもしれない。そうなる前に足早に駅前から遠ざかることにした。
「え?」
そこで、きらなが目を見開いた。警察――ではない。
視界の先でちらりと見えた人物。ほんの一瞬だったのだ、見間違いだろうし、願い続けたことで見えた幻覚かもしれない……でも、本当か見間違いか分からない以上、本物の可能性もある。
だったら、追わないわけにはいかない。
「――っ、れいれちゃん!!」
彼女の背中を追いかけて駆け出した。
彼女の背中しか見ていない。だからきらなは、自分が街灯の多い駅前から光量が一気に減った裏路地に入っても、ここはどこだろう、とは思わなかった。
「――れいれちゃん! どこなの!?」
はっきりとれいれの背中を見たわけではないのだ、彼女の姿を見失ったところで、最初から条件は変わっていない。いるかどうかも分からないれいれの影を追っている。だから正体が掴めなくともおかしいことではない。
情報が少ない。それでもこっちに行っただろう、という勘で引き返すべき道を前に進む。
「はぁ、はぁ――っ、どこにもいないっ!」
夜空に向かって叫びながらも、走る足は止めない。考える暇があるならまず先に走れ、ときらはそう思っている。意外と脳筋なのだ。
後ろを振り返ってうじうじするくせに、目的が見えていれば猪突猛進である。
きらなの美点の一つとも言えるが、しかし状況による。今に限ればいるかも分からない影を深追いするべきではなかった。この先になにが待っていようとも、仮に本当にれいれがいたのだとしても、きらなは戻るべきだったのだ。
あと戻りできない失敗があるかもしれないと予想できた時点で、行くべきではない。
しかし。
きらなの悪手は、間違っても成功とは言えないがそれでも、走り続けた結果、きらなの命を救うことになったのだから、失敗ではなかった。
自分のミスを自分で取り返しただけだが――、
三本線。
まるで、巨大な爪で引っ掻かれたような傷が、真横の壁にあった。
走り続けていなければ、きっときらなの皮膚を破壊していたそれである……。
爪痕、である。
壁の模様かと思ったが、そんなわけがない。
毎日、見ているならともかく、ついさっきまでこんな爪痕、なかったのだから。
破片が壁の下にある。
今、爪痕がつけられたとしか考えられなかった。
猛獣の、爪痕か……?
でも、そんな気配なんて、どこにも――。
すると、きらなの不意を討つように、爪痕が増えていく。
ザザッ、ザザザザッ、ザザッッッッ!!
と、地面を切り裂くように、爪痕がきらなを追いかけてきた。
「へ? ちょ――なに――これっ!?」
爪痕の正体、現状の理解。その全てを放棄して、ひとまず逃げる――走り出す。
答え合わせは後でいい……、ここで爪の餌食になり死んでしまえば意味がない!
「(どうしてわたしを追ってくるんだろう? なにか目的でもあるのかな? わたしに用でもあるのかな? いやいや、そんな、町中で友達に出会った学生じゃあるまいし、そもそもあれは生物なの? 爪痕が動いているって、爪痕だけが動いているって、それって、空気が正体なのかな? 空気が地面を削って、壁を削って、こちらに迫ってきている?
どういうことなの? 全然、ぜんぜん分からないっ。生物だとしても正体が、姿が見えないのだから。これってつまり、生物じゃないってことでいいのかな? ……駄目だ、駄目駄目。考えれば考えるほどに、挟まれていく、板挟みのように、分からないと分からないのサンドイッチみたいになって、これじゃあ身動きが取れなくなる。
理屈なんて関係なくて、今はただ、ああいう存在がいるってことだけを認識していればいいのかな……? じゃあ、ああいう存在だと認識するとして、だからどうなんだろう?
結果的に、結果は変わっていないように感じる。事実、なにも変わっていないのかも。心構えだけが変わっただけで、あとは、状況は、変わっていないんだから。
…………? でも、この状況にまったく心当たりがないってことでも、ないのかもしれない。わたしは、なんだか分かっているような気がする。なにかが引っ掛かっているんだ。でも、なにがだろう? なにが、引っ掛かっているんだろう?
あと少しで出てきそうなのに、喉元まで這い上がってきているのに!
ああもうっ、全速力で走ってる状態じゃ、ゆっくりと落ち着いて考えられないよっ!)」
そんな長い思考をしている最中、迫る爪痕が、急にきらなの隙を突くように、たった一歩できらなまでの距離を潰した。きらなの足、くるぶしに、ゴォッッ! と風と音がぶつかった。
「い――」
まるで、右足が刈り取られたような感覚がした。だが感覚だけだ。内側から響く、金槌で叩かれているような痛みだけ……、良かったとは言えないが、これだけで済んだのは間違いなく良かったと言えるだろう。
「――った……!」
ごろごろ、と転がる。膝を擦りむき、血が出るが、それよりも内側の痛みである。
これは軽傷なのか? 見た目に変化はないが、脂汗が出るほどには痛い……。
なにも分からない。であれば、たとえ軽傷であっても油断はできない。
激痛のはずだが……、普通なら、その場でうずくまるような怪我である。だけど追われているという状況が、感覚を麻痺させているのだろう、きらなのリミッターがはずれている。
痛みに邪魔はされない。
逃げながらも、きらなはまだ、最初の目的に向かって突き進んでいる。
「れいれちゃん……っ!」
こんな目に遭えば、尚更、れいれを見捨てては帰れない。
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